生きることとか幸せとか:【第2回】街と土地への愛着を考える

Serve! Sherwin Nuland says, "It was a privilege to serve as a doctor." Now a lot of kids tell me they want to be millionaires. And the first thing I say to them is: "OK, well you can't serve yourself; you gotta serve others something of value. Because that's the way people really get rich."

誰かのために何かを受け持ち、己を尽くし、便宜を与えろ!>Sherwin Nulandは「医者としての奉仕活動は、本当に冥利に尽きるものでした」と言う。そうそう、子どもたちは億万長者になりたいみたいだけれど、私はまっ先にこう返してやるんだ:「まぁ、それもいいでしょう。だけどね、自分のために役立つことはできないものさ。だから、誰かのために貴ばれることをするのだよ。それが、本当の豊かさというものに近付く唯一の道だからさ」とね。
(TED Talks "Richard St. John's 8 secrets of success"より)


 第2回目となります。前回は「死っていうのは必ず最期に起こることが確定している未来のイベントだから、そこに焦点をあてて準備しておけば、理想の生き方ができる」という話でしたが、脱線と引用のオンパレードになってしまって、よくわからなかったと思います(笑)本稿もそんなノリでいきます。愛読してくれているオフ友には「今回は短くてよかったwwwwwというかやっとまともに読めたわw」なんてことも言われたので、分割したかいがありました。

 本稿の見かけ上のテーマを先にまとめておきましょう:「愛着の持てる土地に住み、いままで培ってきたものをその場所のために使うと幸せになれる」です。これについて脱線しながら語ってゆきます。字数の半分以上が引用になることでしょう。

中川に浮かぶ 夕陽をめがけて 小石を蹴ったら 靴まで飛んで ジョギングしていた 大工の頭領(かしら)に ガキのまんまだと 笑われたのさ どこかに元気を 落っことしても 堂島孝平 葛飾ラプソディー Lyrics 葛飾亀有 アクビをひとつ 変わらない町並みが 妙にやさしいよ 中央広場で 子供の手を引く 太ったあの娘は 初恋の彼女(ひと) ゴンパチ池で 渡したラブレター 今も持ってると からかわれたよ 何にもいいこと なかったけど 葛飾水元 流れる雲と ラプソディー口ずさみ 少し歩こうか カラスが鳴くから もう日が暮れるね 焼鳥ほうばり ビール飲もうか トンガリ帽子の 取水塔から 帝釈天へと 夕陽が落ちる 明日もこうして 終わるんだね 葛飾柴又 倖せだって なくして気がついた 馬鹿な俺だから どこかに元気を 落っことしても 葛飾亀有 アクビをひとつ 変わらない町並みが 妙にやさしいよ
(堂島孝平「葛飾ラプソディー」より)



 この曲は寅さんをイメージしてつくられたようです。御存じ「こちら葛飾区亀有公園前派出所」のテーマソングです。私の世代ではあまりにも有名な曲ですが、上のブロック引用にあるリンクからYOUTUBEに飛べるので、ぜひ聴いてみてくださいな。とても温かい曲です。

 「なくして気がついた」という部分が気になりますが、おそらくファスト風土化のことでしょう。三浦展さんの概念です。ファスト風土というのは、抽象的にいえば「街の構造が統一的になっていること」でして、具体的には「マック、カラオケ、ゲーセン、コンビニ、ファミレス、レンタルビデオ屋といったように、同じ地模様をもった建築物が駅前に敷かれる」ということなのです。

地元の北陸では00年代以降ジャスコができて地元商店街がつぶれ、三浦展氏のいう「ファスト風土」になった。国道沿いにあるツタヤとパチンコ、ユニクロにすき家。画一的な風景はグローバル化の弊害として語られがちだが、そこで育った身としては「ファスト風土=悪」というのもまた違う気がする

— かやさん (@kaya8823) 5月 5, 2012

中2の頃、ジャスコができて地元商店街が潰れていく様は悲しかったが、やっぱり新しくて綺麗な大型店は嬉しかった。商店街では町の誰かが見ているが、ジャスコへ行けば親の目もない。それからは自転車で国道沿いのジャスコやゲーセンへ遠出=自由の象徴になった。自分は明らかにジャスコ育ちだと思う

— かやさん (@kaya8823) 5月 5, 2012

10代の自分にとってジャスコは、古い地元の町から自由になる象徴みたいなものだったと思う。北陸にはまだまだ古い町並みが残っているが、ちょっと郊外へ出ればジャスコ、スタバや綺麗なマクドがある。そこへ行くのが自由だった。でもそれより外へは行けない。大阪や東京は遠すぎた。

— かやさん (@kaya8823) 5月 5, 2012

どこへ行ってもジャスコやTSUTAYAなど、同じような風景が広がる日本の地方を、三浦展氏は「ファスト風土」として批判した。ファスト風土的なものには確かに問題もあるが、そこで育って地元友達が多くいる身としては、ファスト風土でこそ「幸せに生きる方法」を考えたいと思う。

— かやさん (@kaya8823) 5月 5, 2012

多摩ニュータウンへ行ったんだけど、綺麗な駅前から少し歩くともう、うちの地元と同じ風景だった。ロード沿いの格安焼肉店にカラオケ、スポーツショップ…地元と似てるなぁと思いつつ、あんまり馴染めなくて何故?と思った。自分は郊外の風景が好きだと思っていたが、やっぱり「地元」が好きなんだ><

— かやさん (@kaya8823) 5月 5, 2012

ファスト風土化した日本の地方では、どこへ行っても同じような街並みが続いている。だからこそ自分の育った街を「地元」として「特別なもの」だと思いたいのだ。本当はどこの地方も同じ風景だと知りながら、自分の「地元」だけは特別であると思いたいのだ。そうしないとファスト風土に染められてしまう

— かやさん (@kaya8823) 5月 5, 2012

地方がファスト風土化していくにつれ、むしろそれぞれの「地元」意識は強まっていくと思う。「ウチらの地元」だけは特別であると思いたいし、東京へ出なくても幸せに生きていける。これが一部の地方人のリアルな感情だと思う。実際、不況になると東京に出る人は減るし…

— かやさん (@kaya8823) 5月 5, 2012


 ファスト風土は<グローバルの成れの果て>が素因だと思われますが、私はその一歩先に問題の本質をみます。すなわち「街に余裕がなくなってきたので、来るものを拒めなくなってきた」と思うのです。街を作るということは、街をデザイン(設計)することです。シュミレーションゲームをやったことがある人は分かると思いますが、もし来るものを拒めないほど街に余裕がなくなったとしたら、あなたの街は街としての良さを失ってしまうことでしょう。

 街にはデザインがあります。街の地模様といってもいいですし、街の文化といってもいいです。いずれにせよ、誰かがその街に住み、その街を想い、その街の一部として亜全体を作ってゆくのです。その主体となる姿が<地元感>を失ってしまっては、誰も愛着を抱けなくなってゆくのです。

 地元に愛着を抱くことは、とても当たり前すぎて、その意味すら意識されない。地元というのは、安心感なのです。いうなれば<帰ってきてよい場所>なのです。外へ行き、外の空気を吸い、その呼吸を地元に還元する、地元への愛着は本当の豊かさというものに近付く唯一の道なのかもしれない。

 さて、土地のデザインについて考えてゆきたいのだが、字ばかり読んでいてもしょうがない、ということで、ここからしばらくは画像をみてゆきます。お付き合いください。

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 たとえば上の画像は安藤忠雄教授が設計したものです。風の教会といいますが、教会に続くアプローチ(まっすぐ歩くところ)が素敵。初期の方の作品です。彼の建造物をあと3件紹介します。

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 これは姫路文学館です。とてもモダン。

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 これはフォートワース現代美術館。おしゃれー。

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 これは(副都心線)渋谷駅にあります。渋谷駅は吹き抜けになっていることで有名ですが、それも彼の所業のひとつなのです。(その他:「2000年代の建築(wikipedia)」を参照のこと)。

 べつにですね、だれが建てたかとか、その人がどんな権威だとか、そういう話をしたいわけではなくて、私たちが日ごろ忙しなく早歩きしているその街 ― その街の風景や風土 ― は、誰かによってデザインされたものなのです。もちろん私は「古い建造物=深い文化」とは云い切りません。文化はそこにいる<人>がつくってゆくものだと思っております。ただ、文化をつくろうとデザインされた街や建築を簡単に粗末するような精神は嫌いです。わかります。地理的に、日本では古い建造物を遺しておくのに適していないというのはわかります。それにしても物悲しいのです。たとえば、これ、

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 私の地元、国立駅(南口)の写真です。もうこれはありません。この前取り壊されました。その理由は「駅ビルにするから」です。駅前にスペースがないから、駅の上にビルを積んでいこう、という発想です。そのニュースを聞きつけた地元人が、私と同様に写真をとっておりました。上の写真は私の撮ったものではありませんが、私も4か所に保存してあります。ちなみに、駅の後ろにあるマンションは、日照権の問題で教科書に載ったらしいですよ(笑)不本意な名誉。私の友人ですが、PCゲームの一発屋が住んでおります。ゲームで一本あてるとあんなところに住めるんだ…(ゴクリ

27:名無しさん@12周年:2012/04/01(日) 18:03:48.79 ID:/KyhPFCO0
東京は汚いな
こんなビルばっかで風景最低最悪じゃねーか

29:名無しさん@12周年:2012/04/01(日) 18:09:33.63 ID:ScBnsXAK0
>>27
しかたありませんですね。
都市計画がまともに立ち上がる前に機能優先で大急ぎで作って、
作ってる最中に地震と空襲で二度に渡ってぶっ壊されて、
壊されるたびにますます間に合わせのプレハブ都市になったので。
それすなわち日本の縮図でもあります。

けれど、次の大破壊もすぐそこまで迫ってるようなので、
それで徹底的に壊れる事を前提にして、今度こそまともに作ればいいんじゃないでしょうか。

91:名無しさん@12周年:2012/04/02(月) 14:06:14.53 ID:iA433sbD0
歴史ある建造物を改修を繰り返して維持するのとは全く違う
事実上、新築で大正テイスト。
だからこんな安っぽくなる

93:名無しさん@12周年:2012/04/02(月) 14:33:58.75 ID:adEnuB6WP
>>91
しかたないよ以前の本物レンガ作りは耐震は無理なので1970年代から
レンガをレンガ風タイルに変えなきゃいけなくて工事してたんだから
1978年頃の地震で古いビルのガラス振ってブロック崩れて
丸の内血の海だったんだよ
(2ch「【東京】 赤れんがの丸の内駅舎が復活 開業した大正時代の姿に」より)


巨大なソウル駅は、現代の韓国では、同時期完成の朝鮮総督府庁舎とともに日本帝国による朝鮮搾取のために建立された代表的な建築物とされている。しかし豊かな装飾や洗練された構造により、1981年8月25日に大韓民国の史跡第284号に指定されている。駅舎のグリル(食堂)は、日本統治時代に文化芸術人たちが集まって作品を論じ、多くの作品を創作した場所としても有名だった。
(wikipeida「ソウル駅」より)


 韓国にある文化建造物の多くは日本人が…というしょうもない話はやめておいて、様々なる駅もさることながら、大学のキャンパスも<土地>の観点からみて素敵だ(基本的に国立ですが)。

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 さきほどの「国立駅」からちょっと歩くとある大学、一橋大学(国立キャンパス)。私の地元はこういった繊細な風景や面影を遺してくれる建造物がいくつか点在していて、それだけで<地元への愛着>がわきます。

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 これは東大。こうなった背景はわかりませんが、耐震したいけれど、古い建造物を取り壊したくない、といったところなのでしょうか。わかりません。あとは奈良女子とか、慶應の旧図書館とか、神戸大学六甲台キャンパス、龍谷大宮、安田講堂、神戸女子学院なんかも好きです。さすがにこんな冗長なブログでも、大学を全部載せるわけにいかないので、気になったのならぜひグーグルへ。紹介したい建造物はまだある。「他の記事でやりなさい」という正論に負ける気はありません。

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 上の画像は京都国際会館です。要塞みたいでキュート。設計は、大谷幸夫(大谷研究室)。

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 これはカナダにあるアビタ67団地です。モシェ=サフディが設計です。

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 これもカナダ。オンタリオデザイン美術学校。ウィル=アルソップ設計です。素敵。

 日本とカナダが「世界に最もよい影響を与えている国」に選ばれたことはさておいて、デザインという言葉は「設計」です。設計にはかならず「意図」があります。たとえば、

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 この信号機のデザイン。誰がどんな意図で作ったのか。べつに現代文の問題をやっているわけではないので、私の「本文」から「答えの根拠」を探さないでくださいね。あなたが感じるままに言い当ててやりなさい。安全性?危険性?利便性?一元性?統一性?芸術性?あるいは一か所に集めた方が電気の節約になるのか、あるいはドライバーにとってそれがもっとも見やすいのか、そもそも信号機のシステムが気になる理系の子や、こんな設計に違法性を感じる法学部の子や、「私の車線からはこっちの信号機の方が明るく見えたのでこちらに従った」なんて<信号機の電気的記号の解釈>をし始める文学部の子もいるでしょう。

 それはさておき、私たちが意図しよう。自分の地元に<どんな形で還元するのか、できるのか>を思索して意図するのです。デザインするのです。環境を作るのです。

 私の友人であり、シェアをしている同居人のひとり"Yuki Jayce Ikeda"はひとつの意志を持っていて感激した:彼の生れた県は都道府県のなかでもドベに近い学力なのです。その底上げをしたい。すばらしい。目指しているものがある人は強い。彼は本当の豊かさに近いものを持っている気がします。地元への愛で自己実現する、とても素敵なことです。それは「幸せな生き方」のモデルなのです。

 総じて、自分の好きな土地を見つけ、あるいは、自分の生きた地元を愛し、そこで自己実現していくことはとても幸せで、とても豊かなことなのです。こうした自己実現の方法について次で考えたいと思います。御味読ありがとうございました。
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d0249328_6275078.jpg だーぐ!*1金曜日は、"Happy Trash"の管理人で最高学府の最高峰に通うかなたさんとキャンパスデートしてまいりました。いろいろ書きとめておきたいことがあるのですが、はたしてそれをブログという開けたところに書くべきなのか思案しているところです。特にブログと関係があるのは、かなたさんの説いてくれた「環境とブログ字数」というものでした。約言して説明すれば、ブログ(ウェブログ)を読みにくる人は、(ウェブ上で読むのに快適で)適当な字数を求めてやってくるので、その字数周辺にしないと苦痛を与えることになる。なぜならばウェブという「環境」に「ブログ(の持っている字数)」が調和していないから、というものでした。納得だ。

 それを知ってか知らずか私は、長い文章をプリントアウトして読むのですが、この方法をとる人は少ないのかもしれない。この文章にそんな意味があるかないかは別として、せっかくなので(というか彼の言説に影響されて)、これからは出来る限り短く、出来る限り分割して記事を書くことにしました。人に会うと様々なることが変わるなあ、と実感。

*1"God dag / ノルウェー語"



 閑話休題。本稿は、シリーズのひとつ目、

わたしが長谷川さんの入院と手術お断りに強く心を動かされたのは、それが老いを病気にすり変えたくないという意志だと受け取ったからである。人間にとって老いは不安であり、病気も不安であるが老いはすすむ一方でその先に死があり、治る見込みのない、つまり引き帰す見込みのない不安であるのに比べ、病気は引き帰す見込みの残された不安である。すすみゆく老いを自覚して耐えるより病気だと決めてもらった方が楽である
(富岡多恵子、一九九五、老いと病のちがい、朝日新聞夕刊八月二一日より)


 さすが長谷川町子さんだ。長谷川さんは『エプロンおばさん』で有名ですが、彼女はAnglicanism, Anglican Church(聖公会)という宗教の敬虔で熱心な信者なのです。イングランドで生まれたキリスト教の一派*2ですが、他人の信仰している神なんざどうだってよろしいのです。

*2「(永遠の)生命への予定は神の永遠の目的である」「聖書は救いに必要なすべての事柄を載せている。したがって、聖書の中に書かれていないこと、あるいは聖書によって証明されないことは、信仰箇条として信ぜられるべきもの、あるいは救いに必要不可欠と考えられるべきものとして何人にも要求されてはならない」

 さてさて、どうやら私たちは死ぬらしい。もし人間が死ななかったら、数10年のうちに、地球上にある狭い足場はすべて埋め尽くされてしまうでしょう。虫も、鳥も、犬も、牛も、花も、樹も、草も死ななかったら…と、文学的なフィクションでとりとめのない妄想をすると、とても嫌な気分になる。死んで正解だ、という結論に至れる尽くせる。理想の往生を考えれば、理想の死に方が見えてきて、理想の死に方がみえるはずなのです。

Ars moriendi ("The Art of Dying") is the name of two related Latin texts dating from about 1415 and 1450 which offer advice on the protocols and procedures of a good death, explaining how to "die well" according to Christian precepts of the late Middle Ages. It was written within the historical context of the effects of the macabre horrors of the Black Death 60 years earlier and consequent social upheavals of the 15th century. It was very popular, translated into most West European languages, and was the first in a western literary tradition of guides to death and dying.
(wikipedia "Ars moriendi"より)


 世界史を履修された方は、私より遥かに詳しいでしょうが、エジプトの「死者の書(Ägyptisches Totenbuch)」に通じております。西洋版ともいえます。エジプトの<ミイラ信仰>には元ネタがありまして、その名を「オシリス神話」といいます。精神が肉体から乖離して、冥界へ旅立つ段になると、ウンネフェル=オシリスにとある重大な質問をされるのです。その時に聞かれることが書いてある参考書のようなものが『死者の書』なのです。アルス=モリエンディというのは、その西洋バージョンです。

 彼らの考えに従うと、<せっかく死んだのに、より良い世界へ願書を出して、受験しなければならない>のです。そして、その受験の十八番(おはこ)が「あなたは誰のために何をしてきましたか」というのです。この設問にメッチャ良いことを書けるやつが冥界では偏差値が高いらしいです。にわかには信じがたいけれど、とても興味深いのです。

 「情けは人のためならず」ということわざが、誤解・誤用されているという指摘がよく耳に入ってきます。簡単にまとめておきますと、

◎:「他人のために、と思ってしたことは、巡り巡って自分のためになるものである
△:「他人に情けをかけてもその人のためにはならないので、やめとけやめとけ」

 となるわけです。英国作家Elizabeth Bibesco

"Blessed are those who give without remembering and take without forgetting."

幸せになる人というのは、与えたことを忘れ、もらったものを大切にとっておける人のことなのです
(らららぎヘタレ訳)



 「主語が長いときは後置する」とか、「those who...の強調」とか説明しているサイトがありましたが、これは単に聖書の"Blessed are the poor in spirit."のもじりなのです。そんなことはどうでもよいのですが、与えたことばかりに気をとられて、もらったものを忘れてしまう人は多いのです。国に、社会に、親に、友人に、あなたがもらってきたものはなんですか?という問いに即答できるかがキモなのです。

 ところで、死の参考書によれば、死後の受験会場では、自分の行ってきたことが全部まるごと暴露されるらしい。そのときに恥をかかないためにも、誰かのために何かをしておけというのです。そう、結局は自分のためなのです。私も、あの世にいってまで恥をかくのは勘弁なのです。

 さて、なぜ私が<死ぬこと>について考えているかの話をするのです。ある人から見れば「死について考えることは非生産的だ。なぜならば、死について私たちができることは<今自ら死ぬか、あとで勝手に死ぬか>の選択しかないからだ」ということかもしれません。ですが、私はそれもわかった上で死ぬことについて考えております。死について考えることは、未来全般に思いをはせることと同義なのです。だから、死について<自分なりの準備>をしておくということは、未来に対して準備をすることなのです。

There is a time lag between a major social, economic, or cultural event and its full impact. A sharp rise or a sharp drop in the birthrate will not have an effect on the size of the available labor force for fifteen to twenty years. But the change has already happened. Only catastrophe ― destruction war, famine, or pandemic ― could alter its impact tomorrow. These are the opportunities of the future that has already happened. They might therefore be called a potential. But the future that has already happened is not within the percent organization; it is outside: a change in society, knowledge, culture, industry, or economic structure. / In human affairs it is pointless to try to predict the future. But it is possible and fruitful to identify major events that have already happened irrevocably and that will have predictable effects in the next decade or two. It is possible, in other words, to identify and prepare for the future that already happened.
(Peter Drucker "Management(Revised Edition)"より)


 死というひとつのイベントは、まだ見ぬ未来においても確定していることなのです。確約です。いつ来るかわからないけれど、いつか必ず来る。だから、死というものは、死ぬということは、<すでに起こっている未来>なのです。未来を準備するのです。未来を生きるといってもよいのです。




 メタ的、というと難しいかもしれませんが、(すでに様々なイベントが起こってしまった)未来の自分からいまの自分を見てみると、なんとなくやる気が出てくる。やらねばならない気がしてくる。燃え上ってくる。だから、その極限の形として<死を意識する>のです。仏教の一派には「明日、目が覚めないとして、それでも悔いのないよう完全燃焼して生きなさい」という教えがあるぐらいですから、死はいつだって隣においておくべきなのです。

Tu ne quaesieris, scire nefas, quem mihi, quem tibi finem di dederint, Leuconoe, nec Babylonios temptaris numeros(バビュロンの数占いを試してもいけない). ut melius quicquid erit pati, seu pluris hiemes seu tribuit Iuppiter ultimam, quae nunc oppositis debilitat pumicibus mare Tyrrhenum: sapias, vina liques et spatio brevi spem longam reseces. dum loquimur, fugerit invida aetas: carpe diem, quam minimum credula postero.(…なぜなら、私たちがおしゃべりしているこの間にも、嫉妬深い「時」というのは、早足で逃げて行ってしまうから。今日の花を摘み取るのだ。明日がくるということに信用を置かずに生きることだ)
(ホラティウス「詩集」1,11-1~8より)


 "carpe diem"というのは「1日を摘め」という意味です。大意で「いまを生きよ」ということですが、ホラティウスはこのあと"Nunc est bibendum, nunc pede libero pulsanda tellus."とも言います。意味は「いまこそ飲むべし、いまこそ自由なその足で大地を踏むべし」と言っております。

あわれな人間にとって、およそ人生のもっとも良い日は、真っ先に逃げるのである。真の生活に忽(たちま)ち起こりうる最大の障害というのは期待であり、期待は明日からの世界に依存し、延引し、今日を失う。目下、手中にあるものは瞬く間に消失し、その代償に不確かな未来を約束する。将来やってくるものは、全てが全て不確かの中にある。今ただちに行きたまえ。
(ルキウス=アンナエウス=セネカ「人生について」より)


 ヘタレな訳ばかりで申し訳ございません。「期待」というのは、「待ち望む」ということなのです。何もしないで、未来が手に入るわけがないのです。何もしないのは、未来の浪費なのです。だから、未来を手にするために、いまをいきる。誰も与えてなんかくれないのです。本来は、誰もがそれを知っているし、わかっているはずなのです。いわゆる<当然のこと>なのに、知らん顔しているだけなのです。

果報は寝て待て、昔の人は言いました。でも、もうそんな時代じゃないのです!地面を掘り起こしてでも果報は探し出すものなのです!だから探しに行きましょ!この世の不思議をよ!
(涼宮ハルヒ「第5話:涼宮ハルヒの憂鬱」より)


 昔の生活は、まことに死と隣あわせだったのです。たとえば日本なら、誰かが死ぬと「狼煙(のろし)」があがったのです。その狼煙をみて<ああ、自分もああなるんだな>と誰もが納得していたのです。ですが、いまは葬式に出席しても、葬式自体「形骸化」しているので、あまり実感がやってこないのです。「お焼香はなぜやるの?」という問いに応えられる人は少ないことでしょう。

世をうしと おもひとりべの 夕煙 よそのあはれと いつまでかみん
(臨済宗僧侶=一休和尚「一休骸骨」より)


 「夕煙」というのが、鎌倉時代の「人が死んだときに出る煙」です。一休さんは、その火葬の煙をみて<いつまでも余所の死だとは思わない、いつか自分もああなるのだ>とうたったのでありました。ああ、無常。

 流行りごとのひとつに「アンチエイジング」というのがあります。<老いに抗おう、死から遠ざかろう>という愚かな発想です。もちろん売っている方は商品としか考えていませんが、それに踊らされている人がとても可哀想に思います。べつに不老不死を目指しているわけではないし、不老不死の知識(ウンディーニャがなんだとか、エメラルド=タブレットがなんだとか、幻-ポイマンドレースの出現がなんだとか)も一切仕入れようとしないのです。なのに、なぜか、寿命を他人よりちょっとのばしたい、同世代よりシワを減らしたい、というつまらない見栄によるもの。本当によい商品です。

 旧約聖書には、こんな記述もある。

And behold joy and gladness, slaying oxen, and killing sheep, eating flesh, and drinking wine: let us eat and drink; for to morrow we shall die.

[behold:恩恵を受ける slaying oxen(牛を屠殺する) morrow(明日)]
(旧約聖書「イザヤ書」22-13より)


呼びかけよ、と声が言う。私は言う、何と呼びかけたらよいのかと。肉なるものは皆、草に同じ。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花は萎む。主の風が吹き付けたのだ。この民は草に同じ。草は枯れ、花は萎むが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ
(旧約聖書「イザヤ書」40=6・8より)


 これは「ヴァニタス*2」という考え方なのです。静物画のジャンルですね。セザンヌ、ヘームあたりが有名だと思います。これはひとつの仄めかしとして、詳しくは語りません。興味があればリンク先からどうぞです。

*2「Vanitas vanitatum omnia vanitas.(ヴルガータ旧約聖書「伝道の書」1-2より)



I must learn to love in me the one who feels too much, talks too much, takes too many chances, wins sometimes and lose often, lacks self-control, loves and hates, hurts and gets hurt, promises and breaks promises, laughs and cries.

自分自身を愛で包み込み、だれかの気持ちをありあまるほど斟酌し、ありあまるほど語り、ありあまるほどの可能性と向き合い、勝つ時もあれば、負ける時もあり、自分を失うほどの憎悪を抱き、傷つけ、傷つき、誓い、裏切り、笑いと悲しみの感情に身をゆだねることで、深く知り、体得しなければならないのだ
(セオドア=アイザック=ルービンより)


 さてさて、そろそろ、ゆっくりまとめに入ろうと思います。誰かのために生きる、それだけじゃない。誰かのために自分の能力を使いきれること、その覚悟、その意志、その目論見、それらすべてが評価される。それらすべてが自分に還元される。落語に詳しいひとなら「佃祭り」を知っていると思います。あれです。古今亭志ん生と三遊亭金馬バージョンがあるので、ぜひどちらも御覧あれ。

 私たちは、死んでいる。死に続けている。生きるということは、死に向かうということなのです。その中で「自己実現」する方法を探すのです、「自己実現」を目指すのです。クルト=ゴールドシュタインの概念です。私たちは何者になって、何者にならないのか、それを決断してゆかないとならないのです。




 他人のために能力を使いきれる人、他人のために何ができるか考えてゆくこと、仕事で?仕事外で?何者になる過程で、どんな能力を身につけて、どんな形で提供するのか、恩恵というのはどういうことなのか、次の記事からは、それらについてできるだけ詳しく(それでいてできるだけ短く)考えようと思います。御味読ありがとうございました。
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コワーキングにある5つの大きな偏見 ― 対訳篇(1/5)

※再掲載だが、訳語を再考・見直しした。その際、見やすいように<単語の研究>を排した。その代わり、内容で重要な部分に色を塗った。引用を色で示すことから、ブロックに変えた。訳出改善、より自然な日本語に取り換えた。(変更点5/5記す、が、完成記事が消滅したので、これはリライト板となる。がっくし。)

tumblr_lwuru5bOAF1qlt4rlo1_400.jpg 以下の文章は"deskmag"の記事「Five big myths about coworking」を、僭越ながら私が訳したものです。かなり重要なことが書かれているのに、(英語読める人向けに紹介はされていたが)誰も訳していなかったので、私が訳そうと思った(2011/11/27当時)。だが、いきなり訳しても、予備知識のない人にはしんどくて退屈な内容だと思う。「コワーキング(coworking)」が一体どういったものなのか、というところを簡潔にまとめてから訳に入る。





近年のインターネット、様々なソーシャルメディア・ツールの発達のお陰で、私たちはオフィスにいなくとも、自宅で、カフェで、場所の制約に捕らわれず働くことが可能になりました。一方、自宅での作業は時に孤独感を伴い、またカフェでは十分な電源や高速インターネット・アクセスが確保出来なかったりする等の理由から、近年「コワーキング・スペース(coworking space)」という新しい共有オフィス環境が、世界的に話題になりつつあります。特にフリーランスのウェブデザイナー、プログラマー、或いは業種を問わず独立したコンサルタント等の知的プロフェッショナル、社会起業家のような新しい働き方を志向する人の間で顕著に見られる傾向です。
(現代ビジネス「世界で拡がる「コワーキング・スペース」というムーブメント、新しい働き方のスタイル。」より)


「ザ・ハブ」は2005年、英国人ジョナサン・ロビンソンと3人の仲間によって立ち上げられた。その創設の背景について「世の中にチャンスさえあれば実現可能な、新しいアイデアを持っている人がたくさんいるが、個人レベルではリソースや資金の面で限界がある。しかし共通する倫理観に基づいた企画を持つ人間が集まる場所を作れば、夢や着想が現実になりやすいはず。ジョナサンはそう考えてザ・ハブを立ち上げましたが同じようなニーズは世界中にあります」と語るのはザ・ハブのディレクターのひとり、エレナー・ウィットリー氏だ。この新しいシェアオフィスの試みはイズリントンで始まりキングスクロスが世界で5番目、今では世界20カ国に広がっている。各地で展開するハブのシェアオフィスは、けっして一様ではない。地域のニーズによって生まれ、地元のユーザーに適した経営形態をとる。共通するのは、「オープンシェアオフィス」であること、完全会員制によるサービス提供という「ビジネスモデル」、会員同士を結び付ける「ホスティング」、そして人間の行動パターンや心理、社会との関わりから空間をデザインする「デザイン倫理」という4点。この4つの共通事項をザ・ハブのパッケージとして地域に根差した協働のプラットフォームを提供しているのが、ザ・ハブだ。
(WORKSIGHT「志とビジネスを結びつける共鳴のコミュニティ」より)


 佐々木俊尚さんの「仕事するのにオフィスはいらない」を読んだことある人は、<ノマド>という言葉に詳しいかもしれません。しかし、それでもコワーキングとノマドがどう違うのかわからない人は少なくないと思います。

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 おーぷんLOG2というサイトの「フリーランス=ノマド、じゃないんです」という記事に上の画像があった。この画像が詳しいのです。ノマドについて軽く引用。

「オフィスのない会社」「働く場所を自由に選択する会社員」といったワークスタイル。満員電車や残業から開放され、自分の時間を増やす豊かな働き方として注目されている。「ノマド」とは遊牧民のことであり、いつも決まった場所ではなく、カフェや公園、お客さんのオフィスなどでノートパソコン、スマートフォンなどを駆使しネットを介して場所を問わずに仕事を進めること。「サードプレイス」という自宅でもなく、オフィスでもない、第三の自分の居場所で仕事を行う新しいスタイル。
(はてなキーワード「ノマドワーキング」より)


 「雇われないで働きたい」という人にも種類があって、小さい企業をするスモールビジネス、競争を勝ち抜いていくベンチャービジネスがあることを紹介しています。併せて紹介されていたサイトが面白かったので、私も紹介しておきます。

「創業間も無い零細」や「中小企業」を本来の「ベンチャー」とごっちゃにして「ベンチャー」って呼ぶのは止めましょう。まずそこから始める。SMB(small & medium business)からVB(venture business)を明確に区別しましょう
(Zerobase Journal「ちょっと待て、そもそも「ベンチャー」ってのはなぁ・・・(導入)」より)


 「働く人=サラリーマン=誰かに雇ってもらって、その人の御膝元で汗を流した分のお給料をもらう人」という固定観念のある人は、いまだ状況がつかめていないとおもいます。雇われなくたって仕事はできるのです。ただし、自力になる。保険とかもふくめて管理は自分でやる。協力する相手も一から見つけなければならない。自信がない。そういうわけで、やっぱり(大企業に)雇われるのが楽で安心だ、となるのです。そこに新しい価値観を植え付ける記事。さっそく訳して行きましょう。

As a concept, coworking emerged in the late 1990s among the tech crowd. In the wake of dot-com bust, the idea sputtered and lost its footing. Then, around 2005, it was revived by software programmer Brad Neuberg, who popularized the basic model of coworking as we know it today where workers have the community of an office and the freedom and independence of a freelancer. But over the last couple of years, coworking has evolved and matured. Here we tackle and debunk five myths about coworking to show how much it has changed and is redefining how we work. 

90年代後半ごろに、技術屋のあいだで、<コワーキング>がひとつの概念として現出しました。そしてそのあとに、ドットコム=バブルがおこりました。その結果、コワーキングという概念は徐々に勢いを失い、地位を落としたのです。そして再び、2005年あたりぐらいから、Brad Neubergというプログラマが、コワーキングに生命を吹き込み、コワーキングの構造をガラッと変えたのです。いまではお馴染みのフリーランサーみたいに自由で独立した形のオフィスを打ち立てたのです、が、直近年を経て、コワーキングは進化しました。大人になりました。そこで、この場を借りて<コワーキング>という概念に対する5つの事実誤認を取り上げ、ひとつひとつ誤解を解いてゆこうと思います。コワーキングの世界がどのように変動し、われわれ自身もどのように働くのかを再検討する機会になると思います



Myth 1: “Coworking is just a glorified term for ‘shared office’ space.”

ひとつ目の作り話:「コワーキングは<シェアオフィス>を美化しただけの言葉なんだよ」



On a flight to San Diego I found myself getting flustered as I tried to explain coworking to an older woman sitting next to me. I described the set-up in plain terms: an environment and space where people from different backgrounds, who all work for different small companies or for themselves, work alongside each other and share the office equipment, internet connection, and facilities. Before I could toss in a few lines on ‘accelerated serendipity’ and community, she interrupted. “Oh, it sounds like a glorified shared office,” she said with a hint of mockery. “Only without the privacy.”

これはサンディエゴへフライトしていたときの話です。その道中、隣にいた淑女に対して、コワーキングがどういう構造なのかあれこれ説明しようとして、とても狼狽したことがあります。簡単な言葉で説いたのです:「小さい会社に勤めているものどもが、それぞれ三者三様のキャリアを背にして一か所へと集い、その施設にある機材やネット環境をシェアする場所のことなのさ」、そのあと、もう一言二言ぐらい「促進的なセレンディピティあるいはコミュニティーさ」と付け加えるより早く、その淑女は口をはさんできたのです。「あらまあ、光彩に添えられたシェオフィスのように聞こえるわ。しかもただのプライバシーがないシェアオフィスでしてよ」と嘲笑うかのように言って見せた。



A victim of its own semantics, coworking still evokes the cubicle-tinged word ‘co-worker’, a throwback to the corporate world with its trappings of the conventional office. But the only kinship that a coworking space and an office share is that they are both places where people go to work. As a functional space, they both boast office equipment, facilities to hold meetings, WiFi access and storage space. Beyond that, coworking spaces are remarkably different.

この言葉の性質上、コワーキングというものは、区切られた部屋で仕事をともにする「コワーカー(同僚/仕事仲間)」を彷彿させます。このコワーカーというのは快適なオフィスでうわべ上の付き合いで協力しているといった感じがあるのですが、ただ、コワーキングだろうとオフィスシェアだろうと、人が働きにやってくる点は変わらず、結局は、機能性のある空間として、オフィスの機材だったり、ミーティング設備だったり、Wi-Fiだったり、そういったメリットを求めてやってくるわけなのです。それにも増して、いやはや、コワーキングには特筆すべきところが仰山あるのです。



Coworking solves several problems. First, small organizations and independent workers often toil in isolation-- either at home or in the local coffee shop or executive suite, which can leave people feeling despondent, burnt out at the end of the day, especially when faced with the manic highs and lows of being an entrepreneur.

コワーキングという形態をとることで解決できる問題がいくらかあります。最初の問題点は、小規模組織とか独立企業で働くものは、だーれもいないところで汗水たらしているのです ― しかも独力で。たとえばそれは、家だったり、マイナーなカフェだったり、スイートルームだったり、そんなところに放置されて、活力を失い、日没には体力も消耗し、興業主になるためにてんやわんやの起伏と直面したときなんて、まるで死人になったような気分であったりするのです。



Second, for the independent professional, cultivating homegrown innovation can be a challenge. That’s because almost every independent worker will eventually encounter― whether working from home or at a public venue like a coffee shop-- lack of productivity and distractions. It can be tough to stay competitive when you’re working from a small base. It’s economies of scale; it can be challenging to implement a project when your resources are limited and you only have your own expertise to rely on.

ふたつ目の問題点として、独立した技術屋には、<国力を陶冶するイノベーションを起こす>、という課題を与えらているのです。そういった「プロ」は、家で働こうと、カフェのような公共施設で働こうと、最終的には生産性の欠如および乱心動転に邂逅するはめになるのです。小さな拠点で働いてる人というのは、競争心を自分の心の中にほどこることすらできないもので、それは規模を富として考えたときの経済なのです。つまり、使えるものに限りがあるとき、あるいは専門知識にしか頼るものがないときは、どんなに優れた着想を生みだしたとしても、プロジェクトに起こすことはとても難儀なことだということなのです。



Coworking solves both these problems by putting you with people (bye-bye, loneliness) that are from a diverse range of fields and all have different areas of expertise (hello, accelerated serendipity!). In a coworking space, a cohesive community starts to form from the disparate groups. Need help on a press release? Ask someone who’s in the writing business or get PR firm recommendations. Need a programming tweak on your website, check-in with the developers two tables down.

コワーキングというのは【バイバイ、はい、ひとりぼっちで頑張ってね】と乖離されていた人たちを多種多様な分野からごっそり集めることで、【やあやあこんにちは、刺激的で促進的なセレンディピティだ!】という状況に一転させるのです。コワーキングの空間においては、バラバラだった集団が、結束力のあるコミュニティーを形成し始める。何かのアイデアや製品を公式な場で発表したいのですか?それなら、ビジネス本を書いてる人に尋ねてみるとよいでしょうし、CM作ってる人の推薦をもらいにゆくのもひとつの手ですね。自分のウェブサイトのプログラミングを部分的に改良したいなら、デベロッパーとチェックインして、テーブルを立てて話しあえばいいのさ。



At the heart of coworking is having access to a larger community than even your existing colleagues and clients, but also being part of a group of people just starting up or with similar goals. While others might see competition, more people see potential connections. It’s good not only for your mental health (no more sitting in pajamas alone at home), but also for your business. Affinity Lab, a coworking space in Washington D.C., cites that members “often partner with one another, backstopping and expanding each other’s capabilities and skills or forming entirely new ventures.

コワーキングの何が一番いいかっていうと、実際的に考えて、「同僚」とか、「クライアント」よりも大きなコミュニティを利用できるというところなのです。しかしながら、それだけじゃありません。小さな相互恩恵のために共同で何かをし始めることだってできるのです。競争心をたぎらせる一方で、お互いの分野がコラボレーションすることもあるのです。(家でパジャマで座ってるのよりもはるかに)精神衛生に十分な効力を発揮してくれるだけではなく、ビジネス自体がより発展してゆくのです。ワシントンDCにあるAffinity Labというコワーキングスペースでは、「誰もがパートナー、誰もが正捕手、誰もが、新しいベンチャーを打ち立てるときの技術であり能力である」という方針を打ち立てています。



According to Jeff Shiau, director of The Hub Bay Area, “You’re not just saving on rent, but you’re also able to make connections, to build a community around your ideas quickly― at a creative level that's beyond what you would be able to do if you were just working by yourself in a single office space, if you were working out of a coffee shop, or working at home.”

The Hub Bay Areaの指揮官Jeff Shiauを引用しますと「諸君のできることは、使用料(家賃)の節減ではない。つまり、コネクションを作ることや、アイデアを実現するためのコミュニティを即座に形成することができるのだ。独房のようなオフィスで自力で働いていたり、カフェで仕事していたり、自宅での仕事(達成)量を圧倒的に凌駕するほどのクリエイティブ=レベルがそのコミュニティにはあるのだ。」



Being around others with different perspectives, expertise, backgrounds sparks new thinking. Says Suzanne Akin a former member of Cohere, “Not only does coworking help with networking and client sourcing, but it also gets the creative juices flowing.

まったく違う高さの大局観、まったく違う分野の専門的技能、そしてまったく違うキャリアをもった人のまわりにいるということ自体がもうすでに、新しい着想を呼び起こすものなのなのです。元Cohereの一員であるSuzanne Akinのいうことに「ネットワーク性のある援助体勢およびクライアント確保といったことのみならず、コワーキングにはクリエイティブになることであふれ出てくる<喜び>というものがある」というのがあります。

ぷろふぃーる

らららぎ

Author:らららぎ
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