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第34稿「言葉遣いを観察して、想いを少しでも受け取って」

2014.06.16.Mon
言葉遣いには想いがある。

「愛車」「愛犬」「愛煙」「愛妻」「愛嬢」「愛書」「愛刀」 ― これらの言葉遣いから受ける重要な印象というのは何だろうか。ほかの人からすれば「ただの」という語法で見捨てられる大切な印象について、私たちはどこまで理解し、どこまで受け取ることができているのだろうか。「愛好としての」あるいは「愛用としての」という意味を味わうためには、何に着目し、何に意識すればよいのだろうか。

「その時に病気のことを打ち明けると全く信じてもらえなかったり、どれだけ深刻に悩んで必死になっていても、軽く言われてしまうことがあって、それはそれで心が荒む感じがあったりもしました」 ― これは友達の言葉。これを読んでいると、"書かれていることが書かれている以上にとても繊細に書かれていて"、自分がどこまで受け取れているのか臆病になる。

事実の重さは人によって違う。私からしたら「ただのペット」でも、飼い主からしたら「愛猫」だったりする。そして、愛猫の中にも重さがある。愛猫=愛猫ではない。愛猫への愛情は飼い主ごとに異なるし、全てがユニークなはずである。なのに、私たちは、愛猫という言葉しか知らない。「愛猫2000%」とか言っても、「超愛猫」とか言っても、今度はネタにしか聞こえなくなってしまう。だから私たちは、それに続く言葉に延々と耳を傾け、嘘も真もフェアに聞き入れなければならない。先の子は「障害以上健常未満」という微妙なバランスの言葉で語った。これをどう受け取るか、私は全身全霊を用いて、その1%だけでもいいから理解したいと思う。

「これは私の愛車なのですが」という言葉の続きに対して、「愛をもって」耳を傾けなければ分からない。彼がどんな言葉遣いで「愛車を語る」のか、じっくりとゆっくりと確かめなければならない。「私は車なんて"ただの"移動手段だと思っているけれど、あなたがこの車を愛していて、その愛が唯一無二なのだと分かった」と言えるまで、怠らずに聞かねばならない。それはとても面倒だろう。その面倒も良いなって思えるような人と出会おう。そういう人と親しもう。言葉を、語りを、全身で感じきりたいと思えるような人と、言葉を交わそう。

言葉はいつも、体験を表しきれない。たとえば、「家族団らん」という言葉は、本当にあなたの家族経験を表し切れているだろうか。「仲間との思い出」は、本当にあなたの仲間経験を充分に指し示しているだろうか。「楽しい旅行」は、本当にあなたの土地経験を存分に言い切っているだろうか。家族団らんを100回やったとする。その100回のうち、同じだったものはひとつでもあるだろうか。同じ気持ちで、同じ感覚で、同じ印象だったものが、2回でも起こるだろうか。

反復というのは嘘である。反復の中で起こっていることは、どれも、初回で最終回になる。最初で最後、一回きり。その体験のことを、言葉は言い切れるだろうか。表現し切ってくれるだろうか。事務的で、機械的な言語に、そんなこと任せることができるだろうか。

「私は病気だ。それが伝わらない。それは虚しい」という事務文書に、人は何を読み込めばいいだろうか。だから、感性を大事にしている人は、その事務的反復を越えていくために、言葉の限界を少しでも延長するために、詩的な言葉を生み出す。「障害以上健常未満」という言葉に触れたとき、それが「言葉としては成立していない」ことぐらい誰にでも分かる。けれど、大事なのは語法ではない。事務的な意思疎通ではない。「障害」とか「健常」というテンプレートの中に収まり切らない自分という存在の儚い端切れを、どうにかこういにか手繰り寄せ、集めては和え、集めては添え、その永遠にも感じる途方も無い作業を何度も何度も繰り返し、テンプレートの間で揺らぎながら、千切られながら、無理解を去なしながら、どんな不幸も自分のモノとして回収していこうとする気概、どんな苦しみもいつか自分のモノとして肯定したいという希望、そんな頑張り屋な自分を鼻で笑おうとするもうひとりの自分と頑張ることを褒めてくれる自分のあいだで葛藤する熱性のエネルギー、そういったものを感じないだろうか。単に「うまいこと言ったな」では済まされないような、力強い意志を感じないだろうか。

よく、病気はアイデンティティになるという。これは科学的な言い草ではあるが、事務的でもある。病気というものを軽く見ている人間の放つ2チャンネル的な言葉。病気は自分という存在の儚さや健気さを突きつけてくる。それと向きあえば向きあうほど、自分という存在が愛おしくなってくる。時には消えたいとも思うが、それでも愛してやまない存在となる。それを教えてくれたのは、親でもなく、友達でもなく、ほかでもない病気だったとき、病気を愛さないで何を愛せばいいのだろうか。成功者が「この人が恩人です、人生を変えてくれました」と言うのと、何が違うだろうか。病気は、しばしば、自分の存在を教えてくれる恩人となる。「私が、自分の人生を、こんなに大切に、生きることができただなんて」という驚きを与えてくれる。病気にならねば二度と気付かなかったことかもしれない。

2チャンネル的な言葉遣いでは、そんなこと考えない。たとえば、

616 名前:いいちこ飲んでる名無しさん[sage] 投稿日:2014/06/13(金) 12:34:59.37 ID:6+eXXiTQ
>>615
なんであの監督クビになったの

617 名前:いいちこ飲んでる名無しさん[sage] 投稿日:2014/06/13(金) 12:35:22.12 ID:C35aXC6q
>>616
選手のこと殴ったから

618 名前:いいちこ飲んでる名無しさん[sage] 投稿日:2014/06/13(金) 12:36:10.33 ID:6+eXXiTQ
>>617
とんくす


こんな感じの会話があったとする。インターネットの特徴でもあるが、誰も情報を点検しない。書籍だったら「校閲」などの検査が入るけれど、電子はその速さを確保するために、あらゆる大事なことを省く。私の文章も、誰にも点検させていない。相手の言葉を確認しないし、点検もしないし、修正もしない。つまり、「対話がない」。コミュニケーションをしているはずなのに、大いにそのつもりなのに、誰も「言葉を交わし合っていない」のだ。放り投げたり、衝突させたり、時には据え置くこともある。

対話するというのは、アポをとって出向き、玄関にたどり着いては到着したことを知らせ、お辞儀を何度も交わし合いながら、家の中に入っていき、気まずくならない程度に要らない言葉のストック(「今日も暑いですね」)を回転させてお互いが場をつなぎ、靴を脱いだりスリッパを提供されたり、引き連れられながら廊下を直進し、既に用意されている居間に案内されることだ。インターネットの最大の長所は、そんな面倒なことしなくていいことであり、最大の弱点は、そんな丁寧なことができないことだ。

私たちは「決まりきった動詞に、自分なりの副詞を少しだけ加える」ことでしか丁寧になれないはずなのに、インターネットは名詞だけでショートカットしようとする。コンクリート打ち付けのような言葉遣いで、どうにかこうにか近づこうとする。危険に感じる、少なくとも無難ではない。

多くの自動車メーカーは、「低燃費」「ファミリーがラクラク乗れる」ということを強調する。それは車の機能性であって、作る側が「ただの車」だと思っているからこそ目指せるものだ。本当に車が好きな人たちは、「愛車」を売るはずである。日本ではトヨタだけが、"Fun To Drive, Again"(乗る楽しさをもう一度)というキャンペーンを張っている。ピンククラウンには、数多くの人が驚いたのではないだろうか。ショッピングモールなどの売り場を見ても、季節感とマッチさせたり、洋服のコーディネーションと一緒に展示して、「ライフスタイル」を強調しようとしているよう感じる。「ただの車」という言葉遣いから抜け出し、「生きることとしての愛車」を突き進んでいるのだろう。それは、生きるという「動詞」であり、どのように生きるかという「副詞」で構成されている。決して、「車」という名詞だけで語ろうとしない、機能だけで済まそうとしないトヨタの意気込みを感じる。

2チャンネル的で、ネット的な考え方・言葉遣いは、名詞を中心に据える。それは便利で大事なときもあるけれど、もし誰かと親しんだり、仲良くなりたいなら、その人の動詞や副詞にも注目してあげると良いかもしれない。そう考えると、履歴書は名詞ばかりでつまらない。行為の名詞だけで進んでいく恋愛(「告白→握手→ハグ→キス→ベッド→結婚」という名詞だけで考える恋愛)もつまらない。お互いが「恋愛する」という動詞を重要視し、それが「どのように」という副詞で修飾されることを歓迎するようになれば、もっともっと面白くなるかもしれない。

人生が豊かであることを認めるために、豊かな言葉遣いを身につけよう。そこには想いがたくさん詰まっている。

ありがとうございました。おわり。

しーゆーれーらー
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第28稿「秋葉原の変化 ― イベントと戦争機能についての話」

2014.05.30.Fri
おはようございます、らららぎです。
せっかく秋葉原(職場)から記事を書いているので、秋葉原の考現学をしようかと思います。お暇な方がおりましたらお付き合いくださいませ。

さて、秋葉原の遷り変わりに関しては「終戦後の秋葉原の歴史」をご参照いただき、ここでは割愛させていただきます*1。終戦後の秋葉原では、「ラジオ」の存在が重大な役割を果たしました。いまでこそラジオ好きだなんて言うと、一般に古いタイプの人間だと思われてしまいますが、秋葉原で起こっている新しい変化は、実は「とてもラジオ的である」という話をさせていただきます。

映画とテレビという両メディアの違いは何でしょうか。メディアが違うということは、そこに交叉している意識が違うということである、とひとまず言えるでしょう。メディアは、メッセージである ― というのはメディア論の始祖とも言われるマクルーハンの言葉*2で、つまり、メディア(媒介)というのは、「人間同士に関すること、あるいは人間同士の行き来を間で調合するものである」わけです。メディアが違うということは、純粋に、調合方法が変わり、コミュニケーションや思考回路にも少なからぬ変化があるということ。

映画というメディアには、「参加する」感覚が多かれ少なかれ生まれるものです。テレビと違って、自分でラインナップを選び、自分で足を運び、不自由な場所に閉じ込められることを覚悟し、何をするか分からない不愉快な他人と隣接しながら、やや無理な体勢をとりつつ観ることでしょう。ここには、テレビジョン(遠くから送られてくる映像)にはない、その場に参加している感覚があります。それゆえ、テレビを見飽きてチャンネルを変えたり、小説の文字に飽きて途中で投げたりする人でも、映画は終わりまで観る傾向にあるようです。

ポッドキャストとラジオは何が違うでしょうか。テレビや映画は、「音+映像」という複合メディアでしたが、ポッドキャストもラジオも「音声のみ」のメディアとなります。ポッドキャストは、電子技術を活かしきって機能性とコンテンツ性を追及しているのに対し、ラジオの在り方は別様です。ラジオには「初耳性アウラ感覚=芸術的ニュース感覚」があります。これについて、もう少しだけ込み入った話をしましょう。

ポッドキャストは、どこか、複製芸術*3のようです。音声やメロディというのは、(楽譜的な)時間領域のうちにのみ存在しています。そのため基本的には「一度きり=アウラ的」なのですが、ポッドキャストや電子音楽というのは、何度も繰り返されることを前提としているのです。音声を機能としてとらえ、それを反復できるようにした「技術」。それはそれで素晴らしいことですし、私も英会話のポッドキャストとかダウンロードしたりします。ただ、もしポッドキャストが面白いとしたら、それはメディアの面白さではなくて「コンテンツの面白さ」です。英会話のポッドキャストだったら、その「話されている内容」が面白いかどうかに依存しているということです。

それに対して、ラジオというメディアは、コンテンツではありません。ラジオは複製可能ですが、複製前提ではないため、いつも「一度きり」という立場にあります。いわゆる「ライブ感覚」で、複製したいと思ったら自らテープを持ち寄り、自発的に録音するしかないのです。また「チャンネルを自分でうまく合わせる」という要素からは、映画のような「参加感覚」があるようにも思えます。つまり、ポッドキャストは「提供される」のに対して、ラジオは「居合わせてる」ということでしょう。

これをマクルーハンの「メディア=メッセージ」的に解釈して、さらに人間的な表現を試みるとすれば、ポッドキャストは「以下の内容でご提供させていただきます」という無機質な接待であり、ラジオは「あなたに伝えるので、どうかそこにいてくれ」という発信者の祈りである、と言えないでしょうか。メディアの違いは、メッセージの違いであり、意識の違いなのです。

閑話休題。さて、へなちょこメディア論はさておき、秋葉原の街は「電気器材→ファミリー家電→PC→アニメコンテンツ」という変遷をしてきました。この移り変わりは、礼拝的な価値によって成り立っています。なぜなら、秋葉原(外神田)は常に新しいものを取り込み、「観るために訪れる人」を驚かせる場所だったからです。「その場所にしか展示されていない価値あるものを一度でいいから拝みたい」という、宗教的な”感興=観光”なのです。観光が成り立つためには、拝みにくる人と、「どうか観に来てほしい=いままさに現生している展示的・礼拝的価値に居合わせてほしい」と思った企画者が必要。それが戦後はラジオ組み立てであり、家電であり、PCになり、アニメになり、いまは「イベント」だと思います*4

秋葉原はこれまでイベントスペースに喘いでおりました。大規模のイベントを行おうと思っても、それに向いている場所がなかったのです。そんななか、「パセラリゾーツAKIBAマルチエンターテインメント」が2012/11/22に登場し、このビルは7Fに劇場型のレストラン(300人収容)、8Fにお洒落なイベントスペース(100人収容)を持っています。同じ時期10/5に「Twin Box Akihabara」が登場し、ネット配信を完備していて200人を収容できる地下スペースが増えました。

2006年の秋葉原には石原都知事が「東京構想2000」のために敷いた「複合ビル・クロスフィールド」*5があり、それを構成している秋葉原UDXビルの4Fには730人収容可能のイベントスペース、秋葉原ダイビルには450人収容可能のコンベンションホール、残りは「ベルサール秋葉原」にある150~500人収容可能のホールが3つ、それだけでした。それがここ数年、先ほど紹介した巨大施設が少しずつ増えていて、イベンターたちの注目を受けているのです。

Daibuill1.jpg

下の写真の左がダイビル秋葉原、右がUDX秋葉原。上の写真はダイビルの一階で、駅を出てすぐにあります。

junk2.jpg

これはジャンク通り。秋葉原にある「全てを受け入れるための雑菌力」(潔癖主義へ否を唱える力)が、よく分かる通りです。また、キャッチのお姉さんたちは、店の邪魔にならないように壁際の店から少し距離をとり、なお道の邪魔にならないように道の中央から少し距離をとるところに位置せなばならず、まったく身動きができません。夜7時前後や休日になると、メイドさんや女子高生が並びます。

daibuill2.jpg

上がUDX秋葉原を歩道橋から撮影したもので、下がベルサール秋葉原の建物です。

pasera.jpg

これがパセラ。一階がハニートーストのお店になっていて、四階のP.A.R.M.S.というアイドル常設劇場で活躍している「ぱー研!」の人たちが、テーマ曲を作っています。



「はははにはにとんはにとんとん」。地下アイドルすごいなあって思う楽曲。アキドラで平日に無料ライブを行っているので、そこでチェックするのもありかもしれませんね。

akiba 032

ここが「Twin Box Akihabara」です。地下に収容される前の人たち。女性もおりますね。さてさて、ここからはイベントについて考えて参ります。

イベント*6というのは、イベンターや参加者たちが「思い思いに手を加えて築き上げていく」もの。だから<好むと好まざると>未知の何かに遭遇することになります。イベントに参加する者は、「私たちが辿りついた最終位置を必ず受け入れなければならない」(eventual)という気概に曝されるのです。つまり、イベントは「出来上がったものは、出来上がったものである」というあまりにも生硬で、あまりにも粗雑な結果*7を参加者としての責任で(みんなで)引き受けないといけないということ。

私は「いわゆる」の付く人見知りでしたが、イベント(祭り)で変わることができました。人見知りというのが、ある程度までは嘘だということに気付いたのです。私は「承認の手順」にこだわっていただけで、あまりに「綺麗好きだった」といえるでしょう。イベントや祭りと呼ばれるものは、ほとんど誰もが<自由な手順で>それらを築き上げていきます。そのなかで袖振り合う人との関わりも、とても自由で、「好意的にとても何もない」ものでした。間には何もないけれど、それぞれが「参加者としての責任」を感じているために、向き合うまで早く、向き合ってから深まるまでも早く、「お互いの素性が一気に連絡する」のです。私の公言していた「人見知り」というのは、単なる責任逃れと、単なる手順への固着でした。

「イベントではそれぞれが参加者であり、それぞれに良質の責任感があり、それぞれが主人公である」し、それはずっと負っていなくていい。1時間のイベントなら、責任を負うのは多くても1時間。それぐらいの時間なら、責任に対して本気を出してよいかもしれないと思えます。たとえば、「商店街の一員」として責任を負い続けるのはとても難しく、自信を持ちにくいことですが、「商店街のイベントで半日のあいだ協力しながら責任もって頑張る」なら出来なくないものです。協力と責任へのスモールステップにもなるのです。

地域のイベントは「儲けるためだ」と邪推する無関係者がいたり*8、確かにそういう人も中にはいるかもしれませんが、何が肝心なことかといえば「その地域を支える商店街や人々には少しだけ自信がなくて、でもイベント中の短期間であれば責任に向き合って本気を出すことができて、それが<イベントすれば=結果になれば>、明日からも地域を支えていく大きな自信になる」ということ。文化祭や学園祭に参加者として参加するということは、学校という大きな存在を支えるひとりとしての自分が「揺さぶられ」、”その結果として”生きていくことを受け入れることでもあるのです。いわゆる、結果による承認と自信。

さてさて、イベントはラジオ性を持っています。イベントはいつでも「初耳」*9で、ラジオ同様に「繰り返すことを前提にされていない」ものです。この緊張感は、すごく極論すると、戦争の持っていた機能と非常に似ているよう感じます。70年前の日本人は多かれ少なかれ「命のかかった緊張感」を持っていたことでしょう。それがいまでは(運よく)満足のいく安全を確保し、物資もそこはかとなく豊かになったものです。それはそれでいいのですが、受験戦争という「頭だけのかかった緊張感」を持つようになり、頭だけがおかしくなり、心を忘れてしまっています。

戦争を繰り返すのはあまり嬉しいことではありませんが、戦争の持っていた機能はなかなかすばらしかったと評価したいです。戦争を繰り返さないために、チャンバラを禁止し、おもちゃのピストルを取り上げ、ニコニコしていることを美徳(スローガン=空っぽな理想論)として、<平和な子に育てる>ことを徹底してきました。「我が子を平和に育てること」ばかりが行き過ぎて(頭ばかりが行き過ぎて)、子どもが友達と喧嘩することで得ることのできるメリット(というか大事な心)*10を欠落させてしまったのです。

イベントやラジオの緊張感というのは、受験のような頭だけではなく、「身」(身体性)のかかった大事な感覚だと思います。いわゆる老害と呼ばれる人は「自分たちのやった苦労を、いまの若者もするべきである」と考えていて、私は半分だけ賛同しているのです。それについて説明して、さすがに本稿を閉じようと思います。長くなってしまいましたからね。

戦争の苦労や恐怖は、命を脅かし、身体を震えさせることに成功しました。だけど、戦争はしたくないというのが総意だと感じます。そのために戦争の印象がついているものを全廃し、「平和な我が子というもの」を育てるに成功しました。ゆとり教育は、ほとんど漏れなく達成したといえるでしょう。しかし、達成したら達成したで、やはり大事なものを失っていて、その「身体からくる知恵や判断の欠如」は年寄りを苛立たせているようです。

ここでお互いの言い分を理解するために必要な見方を提案します。まず、私たちは、「科学的で合理的で、受験戦争的な頭脳」を手に入れた代わりに、「身体が震えることによって得ることのできる特有な知恵と判断力」を衰えさせてしまいました。逆に老いた側の人たちは、「頭こそあまり科学的で合理的ではないにしても、身体がいろいろな大事なことを知っている」といえます。私たちは科学的で合理的であるにしても身体の感覚がない馬鹿なので、「若者も同じ苦労をしろ=わしらと同じ苦労をしないとわしらの気がすまない」と字面どおりに受け取ってしまいます。

しかし、彼らの知っている<身体的な合理>は、おそらく、「若者には大事な何かが欠けていて、わしらにはそれがあるように予感している。しかしそれが何かを科学的に説明することはできない。だからとにかく同じ苦労をしてみなさい ― 苦労のなかで、緊張のなかで、(受験勉強的で単語帳的な知識ではなく)身体全体の感覚で判断してみなさい」ぐらいのことだと思うのです。で、合理的な若者からすれば「そう思ってるなら、そういえばいいじゃん」ということになるわけです。わたしって、ほんと、ばか。

「そう思ってるなら、そういえばいいじゃん」は本当に恥ずかしい。正論で科学的で機械的だけど、人間(の”身体”)はそこまでよくできていないもの。ハイゼンバグ*11。私たちが「もしかしたら大事なことかもしれないから、今は分からないけれど、とりあえず従ってみよう」という予感や余白を持てなくなってしまったことにも問題がありそうです。優れた経済感覚のうちに消費者的で顧客的になってしまった私たちは、「この商品のメリットやデメリットについて私は全て知っている」という感覚を強めてしまったのかもしれません。「私はこのおっさんの言っていることの内容を把握し切っており、不合理さや無根拠さを知っているため受け付けないという正しい判断をした」と思いたい気持ちが、どんどんどんどん強くなっていってしまって、いつの間にか「自分よりも身を削って生きている人間に対して、科学的でない部分や合理的ではない部分を見つけ出し、意図的に貸す耳を持たなくなった」といえます。

経験からいって、「なぜそれが言われているのか」の答えは、ほとんどの場合、あまり合理的には思えないものです。先のことに関しては、「自分たちだけ苦労しているのは不公平だから」という合理的な理由があてはまるときもあるかもしれませんが、もしかしたら、その奥行きを探検してみると、「それが若者にとって必要不可欠なことだと身体が確信しているから」という不合理に合理的な答えがあるかもしれません。そこまで深くもぐってみるのは、<費用対効果=コスパ>的に考えて、若者が自分のために避けているだけなのかもしれません。また、効率のよさを求めると、次も効率のよさを求めるしかできません。効率のよさを選ぶことが長期的にみて危ないことだと気付く「隙」すらないのです。

閑話休題。受験戦争は、戦争の「頭のぶぶん」だけを代替してくれました。いかに要領よく、いかに無駄なく、いかに効率的に、出るものだけを絞って学習していくかどうか、そしてそれに長けている人ほど「優秀な人」であり、それに長けていないと「不必要な人材」として分けられてしまいました。学歴コンプレックスも、ある面では仕方のないことかもしれません。私みたいに奥行きや無駄を慈しむ人は、そもそも受験戦争に向いていないのかもしれません。受験生は、評論の主張を効率的に読む訓練はできても、詩の無駄さ=豊かさを味わう訓練はしないものです。

それは仕方ないとして、今度は、戦争の「心身のぶぶん」を代替しなくてはいけません。身震いし、緊張し、命がかかっているという責任感や当事者意識。インターネットでは、ちょっと訓練しにくい「その人が居るし、居てよい」という感覚について代替してくれるのは、イベントだということを言いたくて、こんな長い記事を書いておりました。

秋葉原は、ラジオから始まり、紆余曲折あって、イベントにたどりついたのです。「多種多様な人たちをまとめて全肯定する場所」として、ずっとそこにあったのです。秋葉原からは否定や迫害の雰囲気を感じません。「新しいものを受け入れ続けてきた秋葉原」だからこそ、全てを丸ごと認める術を知っているのかもしれませんね。これからどんどん「何が起こるかわからない町」として発展していくことでしょう。そんな願いを込めて、この記事を終わりにしたいと思います。ありがとうございました。おわる。

しーゆーれーらー



*1:「長文の歴史記事を読むのは退屈で面倒という人のために、カタログ的な要約を置いておきます。理系学生の【ラジオ組み立て販売】が流行し、終戦を待っていた電気系の業者たちが外神田に集まりました。【露天】をたくさん敷くけれど、インフラ設備をしようとしているGHQから【撤去令】が出ます。その代わりの場所となったのが【秋葉原のガード下】で、そこに高密度の商品区が出来上がっていきました。もともと【神田・上野は国鉄の乗降者が多く】、品物も安いという情報を聞きつけた人がさらに集まってきて、理想的な市場になっていきます。「所得倍増計画」が進むなかで、いわゆる「三種の神器」などの【家電ブーム】が到来し、【ファミリー層】も取り込んでいきます。家電ブームと交替するかのように、次の魅力となる【PCブーム】が到来。その後はエヴァンゲリオンなどを皮切りに【アニメブーム】も起って、現在はその真っ只中ということです。(本稿では、これを踏まえたうえで、秋葉原の今から未来を眺めようと思います)。

*2:「電気の光を例にとれば、この点が明らかになるだろう。電光は、純粋なインフォメーションである。電光が何か語句か名前を描き出すのに使われないかぎり、この電光はいわば、メッセージをもなたい媒体である。この事実はすべてのメディアの特性、つまり、すべてのメディアの「内容(content)」は常にもう一つのメディアである、ということを意味している。書く場合の内容はスピーチであり、印刷物の内容は書かれたことばであり、印刷されたものが電信の内容となる。「スピーチの内容はなにか」 ― 「それは思考の実際の過程であり、それ自体は非言語的なものである」ということになる。抽象絵画は創造的な思考過程を直接表現したものである。…ここで問題にしようとしているのは、既存の過程の振幅を増したり、速度を速めたりするそのやり方、あるいはその表われ方が、心理的、社会的にどんな影響を与えるかである。なぜなら、どのようなメディアの技術でも、その「メッセージ」が人間に関係するようになると、それによって尺度が変わり、あるいは進度が変わり、あるいは基準が変わってくる。鉄道は、走ること、輸送すること、あるいは車輪、路線を人間社会に持ち込んできたのではなく、まったく新しい種類の都市や仕事やレジャーを生み出して、従来の人間の昨日を促進し、また拡大したのである。」
(マーシャル・マクルーハン「人間拡張の原理」p.15より)

下の画像は「母親タイプ別 情報の捉え方とメディア・エンゲージメントのポイント」からの引用です。

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それぞれの母親が触れる「メディア」と、その結果というかテイストが違うことに気付かれることでしょう。情報を受け取るメディアの選択が意識を変え、行動を変え、ひいては人生を変えるのです。とくにお金の場面となると顕著、つまり、「クーポンから飲食店を選ぶ」「チラシから食材を選ぶ」という人は、安さというレベルに行動を縛られており、摂取するものの質を相当悪くしているかもしれないのです。

*3:複製芸術というのは、ここでは、複製を前提にされた芸術のことです。たとえば浮世絵というのは、繰り返されることが前提にあります。ボーカロイドの楽曲(電子音楽)も同様です。

*4:サンリオの社長・辻さんが「これからの時代は、ギャンブルとセックスとショーだ」と言っていました。これを援用して考えていくと、「たまたま観れた価値ある展示」には、ギャンブルとショーの要素があります。もしそうなら、「たまたま居合わせた価値あるライブイベント」には、ギャンブル(運よく価値があった)も、セックス(参加者が一体になって全身で何かを感じた)も、ショー(未知で新しいものが目の前で私のために披露された)も、充分に満たしているように思えませんか。

*5:秋葉原は、2005年、土地区画整理により再開発されました。(計画自体は2003年からで、もともとは青果市場)。石原都知事が「秋葉原をIT産業の世界的拠点とする」として、秋葉原ダイビルと秋葉原UDXが建てられました。1994年から着工していたつくばエクスプレス(TX)も同時期に完工し、「最高峰の学術研究都市つくば」と、「IT産業の中心地アキバ」をつなぐパイプラインとなり、あらゆることが期待されていました、が、クロスフィールドは秋葉原に馴染めず(というか旧市街から圧力を受けて)、一時的に閉館するところまで追い込まれてしまったのです。いまでは、UDXオープンカレッジといって、「トマトの6次産業化研究」とか「藻で未来のエネルギーをつくる」とか、アカデミックな部分を強化しながら(13Fには東大院理工学研究室があったり)、4Fの東京アニメセンターでは「究極のおしりペンペン展」などを行っておりますね。

*6:「An event is something that happens, especially when it is unusual or important. An event is a planned and organized occasion, for example a social gathering or a sports match. イベントというのは、とりわけ普段聞くことのない大事なことがあるときに生じる何かのことです。また、交流会やスポーツ大会などのように予め企てられており、整備がきっちりと施されている行事についても言います。」
(Collins Cobuild English Dictionary for Advanced Learnersより、らららぎ拙訳)

*7:イベント(even)の語源は、「e-vent」(外に-出てくる)です。そこから「eventually」(結果的に/最終的に)という意味が生まれます。イベントの肝心は「結果」(outcome)にある、ひとまずそう言えそうですね。「発生した結果」はあまりにも自然で、受け取るには綺麗ごとを諦めなければなりません。RPGゲームでイベントを作るときに気をつけるべきことは、しっかりと「結果的に描くこと」です。これについては別の記事で書くことにしましょう。

*8:私も昔は「成人式というのは、地域にお金を落とさせるつまらない強制行事だ」なんてこと言っていました。若かったと反省しております。イベンターとしてのお仕事を少しだけするようになってから、あれは、地域に自信がないからなんだなということに気付いたのです。学校も、お店も、地域住民も、その「地域」という不確かな共同体に対して自信がなく、承認において不安で、自分が「その地域にいて、その地域を心で名乗りながらすごしていいのか」という資格が問われていることにびくびくしていたのです。それを全てチャラにしてくれる装置なんだな、と、ようやくわかるようになりました。成人式は、すばらしい。参加しなかった私は、とても浅はかでした。

*9:初耳というのはニュースということです。いわゆる「新聞」(新しく聞いたこと)ですが、「知りたいこと」ではなくて「知るべきこと」として情報していることを言いました。いまではニュースはネタとして消費されておりますが、ラジオやイベントの「ニュース性=初耳性」というのは、もしかしたらニュースが衰退した今に替わる、ひとつの「知るべきこと」の指標なのかもしれませんね。

*10:つまり、「手加減すること」という感覚を失ったのです。兄弟がいる人は、まだ、兄弟げんかが許されていますから、手加減することを知っていると思いますが、誰とも喧嘩しない人は「手加減というものを手が知らない」のです。頭だけが行き過ぎた、頭だけの存在者となってしまうでしょう。そういう人はテレビでお笑い芸人が「最高の手加減でもって、上手にどついている」のを見ただけで嫌悪感を抱くもの。チャンバラは悪徳であるという、ツライ教育を受けてきたのでしょう。立花隆が「東大には優しい子が多すぎる」と言っていましたが、飼いならされているといっても良いかもしれません。別に私だって主体性という概念が好きなわけではありませんが、「自分が自分として身をもって参加する」ということに不慣れすぎるのです。もちろん東大に数も割合も多いかもしれませんが、そこだけに限りません。

*11:ハイゼンバグというのは、調べようとすると消えてしまう厄介なバグのことを言います。人間はなかなかバグの多い存在でして、すべてを「潔癖のまま」「完璧のまま」「十全なまま」「理想のまま」行うことはできません。そのため、修正する力を持っています。失敗しても「てへぺろ☆」といって帳消しに追いやったり、埋め合わせしたり、懺悔したり、時には自害することもあります。ヒューマンエラーは、どうにかなるようになってるものです。そのなかでも特異なバグ。修正しようと調査すると変貌して見つからなくなるバグ。人間を理解するためには、秋葉原的に「そういうこともあるんだな」と受け入れる姿勢も必要となるでしょう。難しいけど。

欲望する場所のはなし

2012.09.13.Thu

Car là où est votre trésor, là sera aussi votre cœur.
あなたの宝があるところ、そこにまた、あなたの心があるのだから

― ルカによる福音書12章34節より



 本稿では、欲望についてgdgdと書いていこうと思う。つまり、ラカンが出てくる。ラカンは難解だ。ラカニアンはもっと難解だ。それでも、高校生レベルに落とし込みたいです。脱線ばかりするので、ぜんたいてきに長くなるけれど、休みながらゆっくり読んでくださればはっぺーです。



 ジャック=ラカンという精神分析学者がおった。こう言った、

それがあったところに、私もあらねばならない


 人間の根源的な姿、もともとあったはずの本来的な形にもどろうとする「欲望」を自覚して、認めて、欠如した主体を取り戻そうとすることをよしとする。「幻想」がそれを遮断する。ラカンの言葉をつかえば、「現実界」と出会わないように阻止するのです。

 幻想にまどわされて、欲望がみたされたと錯覚する。でも、本当はみたされてない。あるいは、小乗仏教のように「大欲は無欲に似たり」と説いてみたり、ゼノンもびっくりなほどに禁欲してみたり、これらはひとつの処世術であって、悪く言えば「ごまかし」なのです。

 ラカンは言う、欲望することに妥協するな、と。欲求はみたすことができるけれど、欲望はみたされることがない。欲求は受動的(外からやってくる)で、欲望は能動的(内からわいてくる)のです。「欲望は本質的に個人的だ」といわれるように、内側からわいてくるものですから、私の欲望と、あなたの欲望は姿かたちは、大小あれども、たがうわけです。

 幻想。外からやってくる欲求を、自分の欲望だと勘違いしてしまうのです。たとえば、「私は次の日曜日に何がしたいだろうか」という問いの答えを、土曜日のテレビ番組に教えてもらうということです。

「いま若者のあいだで話題になっていて、超流行っているヌードリング!あなたはもう体験しましたか?まだのあなた!まだまだやりたりないあなた!あしたは電車に揺られて、○○までお越しください!」

「でも・・・新しい趣味を増やすのって、お金がかかりそうだし、道具をそろえる手間も・・・」

「そんなことはありません!○○なら、道具一式セットでかりることができるので費用は多くかかりません!さらに!駅から無料の送迎バスが出ているので、実費は電車賃だけです!」

「へえ・・・!それなら行ってみようかな!」

「YES!ぜひこの機会に!みんなも乗り遅れるなよ!」



 こんなやりとりを漫然とした精神状況でながめていると、なんだか、自分が乗り遅れていて、「ちゃんと欲望していない」ような気持ちになってきて、急いで電話をとって、予約をいれてしまうのです。でも、それだけならいい。それだけならいいのですが、この人があとにどういう振る舞いをとるか考えてみましょう。

 同じように暇と退屈をもてあましている友人を誘って、ヌードリングをしにいく。楽しそうに振舞う。明らかにデカい声で、まるで「自分が心から楽しんでいることを周囲にアピールする」かのように、一生懸命遊び、一生懸命楽しみ、一生懸命モトをとろうとする。

 こういう人をたまにみかける。若者におおい。たとえば、どこでもいいんだけど、マクドナルド。学生風情が数人集まってなにやら話している。いや、「なにやら」ではなく、話している内容がすべてこちらに把握できるようになっている。「ようになっている」というのは、だべっている学生の声は「明らかに周囲に向けられた」ものなのです。アピールです。

・私には放課後おしゃべりできる友達がこんなにいます。
・しかもこんなに楽しいです。
・こんなに熱心におしゃべりできます。
・あなたはなに静かに独りで新聞読んでるんですか。
・私はこんなに楽しそうですよ。熱中していますよ。
・友達いないんですか。楽しめる仲間はいないんですか。
・私には、ほら、こんなにいますよ。

 修学旅行に来ている学生にもたまに出会います。おなじような振る舞いをみかけます。

・私は修学旅行にきていますよ。
・平日に制服で友達といっしょに東京をまわっていますよ。
・見慣れない制服でしょう?他県からきたからね。
・みて、すごい楽しそうで、すごい解放的でしょう。
・あなたはなんでそんな暗い顔して汗ふきながら急ぎ足で歩いているの?
・私たちは、こんなにブラブラしていて、自由で、楽しそうで、もうしぶんないでしょう?
・いやー楽しい。大好きな友達と、都会で自由に遊んでる私は幸福だと思いませんか?
・あなたも私と同じようにすればいいのになあ、そのビジネスバックすごくダサいですよ。
・楽しい!楽しい!楽しい!楽しい!楽しい!楽しい!

 私はかなりひねくれている性格なので、「わざわざ楽しい思い出を作らないと楽しい思い出が作れないような友達は、本当の意味で友達とはいえない」と思っております。もしこの学生が、ふだんから、かけがえのない友達と、楽しい思い出を刻んでいるのだとすれば、修学旅行でこんなにはしゃぐことはありません。ふだんより、ちょっと特別な夏の思い出ぐらいのものです。けれど、この学生は必死である。楽しむのに必死で、楽しい思い出を作るのに必死で、<みんなの写った写真をとる>のに必死で、撮った景色や情景はまったくどうでもよくなってくる。どんな思い出を遺すかに必死で、もっといえば、他の班の学生よりも、もっともらしい思い出を、楽しそうな思い出を遺すことに一生懸命なんです。こういう学生の最大の特徴は、こういうときだけカメラを肌身離さずもっていて、ふだんはプリクラ以外、なんの思い出も遺そうとしないところです。

まともな学生:日常生活≦修学旅行
こういう学生:日常生活<<<<<<<<<<<<<<修学旅行

 彼ら、彼女らに決定的に欠けているものは、「尽きない(みたされることのない)欲望」なのです。つまり、幾人かの若者は「尽きない欲望を持ちたいという欲望」に病んでいるのです。とても空虚で、とてもからっぽ。エンストです。ガス欠。それなのに空焚きして走っているようなもの。1億総うつ病も夢じゃない。

 フロイトが生まれ、その弟子ラカンが生まれた時代は、19世紀後半から、20世紀前半です。ちょうど、社会保障の基盤が整った時代です。

産業革命により資本主義が定着していくと、資本家から失業は個人の問題であり国による貧民救済は有害との主張がなされた。一方、工場労働者たちも防貧のために、自分たちの賃金の一部を出し合って助け合う共済組合を作っていった。共済組合は、イギリスでは友愛組合、ドイツでは疾病金庫などの名前で親しまれ、主に疾病と失業による雇用の中断の際の経済的保障を提供していた。これらは、共済内メンバーの所得保障等に寄与したが、一方で高齢者(退職した労働者)の貧困問題には対処できなかった。また、小規模の助け合いの仕組みでは給付水準も限られ不安定であった。
1883年、ドイツで初めて疾病保険が制定された。1884年には労災保険、1889年には年金保険が制定された。このように、社会保険制度を創設しつつ社会主義運動を弾圧する鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクの政策は「飴とムチ」の政策と呼ばれる。疾病保険は、既存の共済組合を利用したもので、経費の公費負担はなかったが、労災保険の費用は全額事業主負担だった。年金保険は30年以上保険料を払い込んだ70歳以上の高齢者に給付を行うものであり、公費負担が3分の1だった。ドイツで始まった社会保険の仕組みは、その後世界各国で導入されるようになる。
― wikipedia「社会保障」より


 18世紀後半から、19世紀にかけて産業革命が起こりました。社会保障のようなものが登場することになったコンテクストです。面白い記述が受験の参考書にあったので、ちょっと引用をしますね。

かりにSF風に自由にタイム=スリップができるとしよう。現在から順に過去にさかのぼっていくと、どのあたりで現在の世界とはまったく違う、べつの世界に入ったと感じるだろうか。むろん、小さな「変わり目」はくつもあるが、決定的に「違う」社会に入るのは、とくに西ヨーロッパでは18世紀末のことと思われる。
この境目をこえて18世紀に入ると、すでに都市はあるが、なお大半の人々は農村に住んでおり、大きな工場もなければ鉄道もない。仕事は家族がまとまってするのが普通で、家族は一日中、ほぼいっしょに行動している。学校や職場で、同じくらいの年齢のものが大勢集まっているなどということもまずない。人々は時間単位で雇われているのではないから、好きな時間に働き、好きな時間に休んでいる。町でも村でも、地域の人々はたがいに顔見知りで、たいていのことでは助け合いながら生活していた。
(中略)
このようにみてくると、現代の世界の基本ができあがったのは、この18世紀末から19世紀の初めのころであることがわかる。しかも、その変化は他のどの国よりも、まずイギリスにおいておこったといえる。このように考えて、この大転換を「産業革命」と呼んだのは、スラムの改良運動をおこなっていたイギリスの学者トインビーであった。19世紀後半に活躍したトインビーには、都市のスラムの生活にみられる貧困や病気・犯罪などの社会問題は、この「産業革命」が生み出した弊害である、と思われたのである。
― 木下/木村/吉田「詳説世界史研究」p.336より


 産業革命で、よくもわるくも、よきにつけあしきにつけ、個人が個人として生きていけるような世界の基礎ができあがっていた。個人の衣食住。加えて社会保障という秩序によって、マズローの欲求段階でいえば、1番目の欲求と、2番目の欲求がみたされるようになった。こりゃすげえことだ。

 このあと大きな戦争が2つ起こるけれど、精神分析なるものが必要になったのは、安定期に入ってからのことです。必死に食べるものを求めていたとき、必死に住む場所を求めていたとき、必死に秩序を求めていたとき、そんなときに精神分析なんてものはいらなかったのです。安定してしまって、何を求めてよいのかわからなくなって、「私は何のために戦い、何のために傷つき、何のために革命を起こしてきたのか」という問いに押しつぶされそうになった。そこで、精神分析という発想が必要になったのです。

 脱線になりますが、ウィリアム=モリスという革命家は優れた革命家であった。革命家というのは、よくもわるくも、「どうやって革命を起こそう」ということで頭がいっぱいになっている。労働者と手を組むかとかね。でもモリスは違ったのです。彼は「革命が起こったあとどうしよう」と考えていたのです。少しだけ引きます。

あなたも私も熱望してきたものが手に入ったとき、次は何をするのだろうか。目指してきた大革命は、夜の盗人のようにやってきて、いつの間にか足元にいる。革命が突然、劇の幕が閉じるように完成して、民衆の正しい心によって認められ、歓迎されるとしよう。そのとき私たちは、何をするのだろうか。あの辛い労働の時代を二度とつかまぬためにも、新しい腐敗を生み出さないために、私たちは何をすればいいのだろうか。新しい旗がかかげられたばかりの旗竿から立ち去り、新しい秩序を宣言するラッパの音色が耳元でまだ響いているとき、私たちは、次にどこへ向かうのだろうか。どこに向かっていく必要があるのだろうか。労働以外に、何に向かっていくのだろうか。
― ウィリアム=モリス「民衆の芸術」より


 世界史を履修していれば、「アーツアンドクラフツ」というのを聞いたことがあると思います。他でもないモリスがはじめた芸術運動です。産業革命が起こって、工場でたくさん生産できるようになりました。そのおかげ(せい)で、安いものが作れるようになりました。ところが、質は粗悪なものばかり。でも安いから、それが流通していったのです。モリスはその流れに立ち向かったのです。つまり、「生活に芸術を」をコンセプトにして、手仕事に還ろうと訴えたのです。*1

 あらかじめ考えていたから有用な芸術運動ができたのです。もちろんモリスの家が金持ちというのもあると思うけれど、革命がおこる前段階から、革命後はどうなるだろう、どうするべきだろうと考えていたモリスならではのスペシャルな運動だったと思います。

*1結局モリス協会の作品は高価で「市民生活」には浸透できませんでしたが、モリスの「生活と芸術の統一」という考え方がひろがっていき、美術運動を生んでいきました。



 閑話休題。モリスは「熱望してきたもの」が完成して、そこで完全燃焼することなく、芸術家としてやるべきことを見出し、再び欲望を火のように燃やしたのでした。精神分析の余地はありません。自分の才能を発揮する場所が、彼にはいくつかあったのですから。

私見では、西洋諸国の最も知的な青年たちは、自分の最もすぐれた才能を十分に発揮できる仕事が見つからないことに起因する不幸に陥りがちであることを認めなければならない。しかし、東洋諸国では、そういうことはない。今日、知的な青年たちは、世界中のどこよりも、たぶんロシアにおいて最も幸福である。そこには、創造すべき新世界があり、新世界を創造する際に拠るべき熱烈な信仰がある。
― バートランド=ラッセル「幸福論」p.162より


 ぼくたちには、才能を発揮する場所(仕事)がない。そもそも才能を自覚していない。つまり、向き不向き、得手不得手がわからない。熱望するものがないので、熟練したい技術もない。だから、「熱望できる何かを熱望して、欲望できる何かを欲望している」のです。いよいよ精神分析が必要になってくるのです。精神分析が生まれたコンテキストはこんな感じです。手続き記憶がしやすいようにまとめると、革命、保障(=秩序)、安定、どこに向かえばいいのかわからない、精神異常(=不安と絶望)、精神分析です。

 ラカンの臨床数は少ないです。理論より。フロイトの臨床数は多いです。失敗という失敗もすべて公表していたので、精神分析の発展にかなり役立ったそうです*2。そのなかでも有名なショートケーキの女の子の話をしましょう。

 女の子は苺の乗ったケーキを食べたいという夢想をしていました。その幻想の原因はどこから来るのかフロイトは精神分析します。女の子はべつに、「ショートケーキが食べたい→食べれない→幻想」というわけではないのです。この子は、自分が幸せそうにケーキを食べていると、親が満足することを知っていたのです。だから、両親にケーキをもらい、幸せそうに食べて、両親が欲求*3を満たす。この子は、両親の欲求を「自分(少女自身)」に向けてほしいのです。そうすることで、アイデンティティ(自分のいるという根拠のようなもの)を形成しようとしていたのです。

 幻想は、欲望の仕方を教えてくれる。自分が欲望していることを教えてくれる。ラカンは「欲望とは他者の欲望である」というようにいっております。他人がほしいものがほしい。他人との関係のなかでしか欲望がわからない。ところがヘーゲルは「欲望とは他者への欲望」だといいます。ぼくたちは、みんなから「意味」をもらって生きています。その「意味」で世界を構築していき、その中で「自分」を作っていくと考えることもできます。そうしたら、みんなに承認されない自分なんて、まったく意味のないものだと思えてくる。間主観性(インターサブジェクティビティ)*4です。

*2いまの時代は、すぐに医事訴訟になるので失敗を失敗と認めることすら困難になってきましたね・・・がっくし。
*3この場合なんだろう。「育児欲」とかネーミングされるのだろうか。
*4「場であります。場とは、共感された文脈、共有されたモノ。生きた文脈の共有の状態。異なる想いや主観を共有して客観化する。知というのは真空では作られません。同じ組織内の人間、顧客、サプライヤ、競合、大学、行政などとのやりとり、関係性の中で、異なる主観の人達と、主観の限界を超えて知を創造していく。みんなの主観を作るのが場。みんなの主観を共有していく、客観化していく、総合していく、そのような社会的な仕組みの中で知は作られる。想いが言葉に、言葉が形に。社会の知が創出されていく。組織的に知を作る。総合はまとめるではなく、弁証法でいう総、より高い次元で、アウフヘーベン、スパイラルアップ。難しい話ではありません。他者との関係性の中で、自分とは異なるそれぞれの主観をみんなの想いにする。相互主観性、インターサブジェクティビティ。みんなの主観にしていく。一人の主観を超えていこう。これを実現するのが場です。場というのは重要な役割を果たします。みんなの主観性を作り出すには、身体が触れ合わなければだめ。身体が触れることが重要。身体と身体が共感する。メルロポンティが言っていましたが、身体知。身体が共感するということ。」(『Innovation Sprint 2011 野中郁次郎先生の基調講演メモ』)



 親や教師、コーチ、上司、友達、恋人、とにかく他人が望んでいる人物像になる。こどもはそれがとても素直で、子どもの使う「○○になりたい」は欲望そのままである。たとえば、ヒーロー。戦隊でも、アンパンマンでもいいですが、「きみがいないとダメなんだ」とか、「いつも助けてくれてありがとう」とか、そういわれる存在でありたいと思い、そのまま「アンパンマンになりたい」などと不可解な供述をし始める←

 私が小さいころは、母子家庭だったので、とにかく母親が好きなものになろうと必死だった。いまでもそのきらいがあります。世間でいうところの、マザコンというやつです。マザコン息子は、おもしろい心理でもって女性をみるそうですね。「母親が嫌いなタイプの女性を嫌いになる」んだそうです。納得納得。私の恥ずかしい話を続けるとすれば、私は名探偵にあこがれてた時期があった。コナンくんとか、金田一の影響です。人からありがたがれるのはもちろんのこと、誰も気付けなかったトリックにいち早く気付き、それを堂々と発表する。そのとき、みんなが自分の話を興味深く聞いてくれる。そしてすべてのロジックがつながったとき、犯人とされる人が、参ったをする。逮捕は面倒なので、警察がやってくれる。次の日の新聞に「名探偵!またもお手柄!」と載る。

 本当によく憧れたものだった。だけど、ヒーローとか、名探偵とか、戦隊なんていう職業がないことを知った。たぶん、それなりにショッキングなことだったとおもう。話が過ぎるのもなんなので、引用をする。

あれがどうしてなのか、全然自分でも分からなかった(癖になっているかのようにそういう動きをいつもしていた)のですが、多分相手(女の子であることが圧倒的に多い)に「どうしてもそれをしてほしいんです」と切に願われて自己承認されたかったのでしょうね。それが好きだったのでしょう。(1)

つまり僕はジコショウニンフィリアだったのでしょう。ただ面白いのが、どっちかと言えばこれはジコショウニンフィリアの中でも特に狭義のようです。何かやった時に「君はすごいね」とか「○○だね(○○の中には社会的に○か人格的に○な言葉が入る)」と承認されたところで大して喜びがないのです。(2)

だから僕はあまり人に褒められることが好きじゃないのです。なんか素直に受け取れない。相手が困り顔で「お願いしたいの」と言われた時にこそ、何か真に褒められたような感覚がするようです。<3>

まだ気付いたばかりであまりうまく言葉にできませんが、僕は好きだったから無意識にでもあーいう行動をしていたのだ(嗜好を内在させた行動とでも言おうか)と理解できたことは、これからの行動修正をしていく中でカギになりそうです。ありがとうございました。(4)
― とある友達がくれたDM(Twitter)より ※転載許可済み


 ぼくが「フィリア(興奮をともなう性愛)は、フォビア(恐怖心)から来るんだ」という仮説を話したときDMで送ってきてくれたメッセージです。ぼくも、彼も、二十歳という大きな駅を通過しているというのに、いまだに精神分析がすすまない。「行動修正」
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普段入らないお店に入るという小さなリスクテイクで社会に生かされない人間として自立する訓練をする

2012.05.05.Sat
※リスクヘッジ(Risk Hedge)
危険を回避すること=リスクマネジメント

※リスクテイク(Risk Take)
損失を想定した上であえて危険な道を選ぶこと

 大恐慌や不況になると、人々は悪い均衡のコーディネーションに集まるということがわかっていて、この場合の均衡選択に関するアルゴリズムは存在していないんだそうです。ケインズの"Animal Spirits"という概念はたしか、需要の上昇傾向だった気がします。つまり、景気がよくなればなるほど、長期的な購買や投資に手を出すということなのです。逆に、震災や不況などで心理的な不安が高まると、短期的な購買(食べ物の買い占めなど)に走るのです。

 食料や衣料などが短期的、家電や車、あるいは住宅などが長期的な購買といえるでしょう。震災や不況のとき、政府がいかに"政治"できるかというところにかかっているのです。つまり、リスクヘッジ→リスクテイクへの転換ができるかというところなのです。

 ただ、私たちは社会に生きているわけですが、社会に生かされているわけではないということを把握しないとならないのです。生かされるのではなく、自ら積極性をもって社会の中で生きているのです。それすなわち、政府がやってくれないなら自分でやるほかない!ということなのです。

 現在の政府は脆弱です。誰がどうみてもそう判断を下すのではないかと思っております。複数均衡であるところを、(政策の結果的に)悪い均衡にばかり促しているように感じるのです。そうなると私たちは心理不安にかられますから、短期的な購買のみに制限されるのです。現在のアメリカが特にそうですね、薄っぺらい需要に経済が死んでます。TPPのおかげでオバマさんの株が騰がれば、少しはリスクテイクに変わるかもしれません。

 閑話休題。誤解をおそれずいいますと「リスクテイクをしないことが、もうリスクなのではないか」ということなのです。私たちの生活にある、あるいは社会にあるカリキュレイテッド=リスク(想定できる危険性)を見つけだし、それがリスクテイクしたほうがいいことなのかどうなのかを判断する力(リスク=リテラシー)をつけるべきなのかもしれません。

 べつに、私はここで「企業しろ!」とうたっているわけではなくて、リスクヘッジばかりして、短期的な購買ばかりになると、社会がつぶれてゆくから、もう少し楽観的になって、身の回りの小さいことからリスクテイクしようぜ、ということがいいたいのです。

 いままで入ったことのないお店に入ってみたら、頼んだことないメニューを注文してみたり、いつも通らない道を選んだり、怒られそうなことを言ってみたり、ちょっとだけ大袈裟なことを言ってみたり…

 これらは、リスクテイクすることが目的になっているから、結果は割とどうでもよく感じるのです。勇気を出して入ってみたお店が美味しくなくとも、勇気を出すことが目的ですから、味など結構どうだっていいのです。

 勇気や自信がない人は、リスクに強い人と一緒にいるのがよいです。いつだってリスクテイクする友達のあとに付いていってください。引っ張ってってもらってください。そうするとだんだん、自分は何もしてないのに、勇気や自信がついてくるのです。

 賢い人と一緒にいると(何もしなくとも)賢くなれるし、馬鹿なやつと一緒にいると(何もしてないのに)馬鹿になるのです。人は環境によって性格がかわるのです(=環境順応)。ギャルのなかにいれば、特に何をするわけでもなくギャルになることができるのです。バンドやってれば、勝手に楽器ができるようになるのです。

 失敗すると人が離れてゆくのは、失敗した人の近くにいると、何もしてないのに失敗するからなのです。成功したとき人が集まってくるのは、成功したいからなのです。失敗して周りに人がいなくなってしまったら、同じ境遇の人を探して、ともに立ち上がるのです。強い意志を持っている人と一緒にいれば、意志が強くなりますから。

 こういった人間の順応性はミラーニューロンなのでしょうか。私は詳しくしらないのですが、悪い均衡の中にいれば、本当に悪い均衡になるのです。社会に生かされてはいけないのです。生かされれば「社会次第」になってしまいますから。自信のある社会とか、活気のある社会とか、生命力のある社会ならよいのですが、いまのような脆弱で萎れた社会の中で生かされていても、自分が目減りしてゆくだけなのです。自分で生きるのです。いわゆる自立です。

 その第一歩として、小さなリスクを取る訓練をするのです。入ったことないお店にゆくのです。降りたことのない駅で降りるのです。名も知らないカフェにゆくのです。はじめてみた名前の著者の本を手にとってみるのです。リスクテイクはこういったところから始まります。幸運を祈ります。ありがとうございました。
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幻想にいきる

2011.07.06.Wed
小さなころは神様がいて、不思議に夢を叶えてくれた。やさしい気持ちで、目覚めた朝は、大人になっても奇蹟は起こるよ。カーテンを開いて、静かな木漏れ日のやさしさに包まれたなら、きっと、目に写る全てのことは、メッセージ
(松任谷由実「やさしさに包まれたなら」より)

自分が発しているのと同じようなものが自分の周りに集まってくる。時々、「こんなものは私が望んだものじゃない!」と思うけど、やっぱり自分の中に似た部分があることを認めざるを得ない。他の人のどんな意見も行動も、自分はどう生きていきたいのかを考える材料になる。花には蝶が集う
(Twitter Account @chiyorin_com 6/7のツイートより)

頭の中に古い考えが頑張っていると、新しい情報が入ってくるのを拒否するから、せっかくの新しいメッセージも届かない
(工学者 糸川英夫)


 私たちの心の中、内側には、無限大に拡がる世界があるのです。私たちが、日常みているモノやコトというのは、私たちの内側にあるモノの一部なのです。

 一般的に現実と呼ばれるものは「外に出たモノ」であって、たとえばデータとかジェスチャとかルックスとか言葉とか表情なんかがそうなのです、が、思考とか着想とか思惑とか感情といったモノは、ほとんどが外に顕れることなく内側で消費されていくのです。

 外と内はリンクしているのです。ユング心理学ではないですが、心の奥で無意識が密かに抱く理想を、現実の価値観にしているのです。心の奥で「こうなれば幸せ」と願ったとして、現実でそうならなかった場合、不幸を感じてしまうのです。

 現実をさす「外にあるモノ」は、はっきりいって、意味を持っていないのです。小説「ナイン」から考えること意味を付与することで書いた通り、意味というのは事後的に自分のジャッジで決着するのです。そのジャッジの基準というものが、内側にある無意識の願い(desire)や幻想(daydream)なのです。

 余談になりますが、ブログを6年やっていて「考えるって何?」という質問を何度もいただいたことがあります。私が持ち合わせている答えは「考えるというのは、生きることであり、生きるということは、人生の出来事の意味を常に更新していくこと」ということなのです。

 ジャッジが変われば、意味は当然変わるのです。その判断基準である自分の中の幻想や願望が一皮向けたりすれば、意味というのは変わってくるのです。昨日「トリハダ」という番組で「ベトナム戦争の時、ベトナムの少女は、アメリカ兵に父を殺され、その人をずっと恨んでいたが、33年の時を経て、たった1枚しかなかった父との写真をそのアメリカ人から受け取るために対面することになり、会うやいなや歓喜に溺れた(要約下手でごめんね><)」という内容の番組がやっていました。

 読者様も「あの時は恨んでいたけど、今は…」という経験があるんじゃないかと思うのです。考えることで、生きることで、時が経つことで、意味が更新されて、新しいメッセージを受け取ることができたということなのです。余談を続けます。

 「時が解決してくれる」という言葉があるのです。小さいころは、どうしてそんなことがあるのかわかりませんでした。でも、いまはわかるのです。時は、私たちが想像しているより遥かに、大きな力を持っているのです。世界には、様々な「力」が溢れているのです。私や、あるいは読者様が「自分は無力で何もできない」と歎いたことがあったとしても、重力・引力・張力・摩擦力・浮力…etc、世界に溢れている「力」を利用することで、私たちは困難や艱難を乗り超えることができるのです。

 時が解決というのは、時間の経過とともに様々な力が作用して、なかば強引に意味を変えてくれることをいうのです。「どうにかなるさ」という言葉も、単なる気休めなんかではなく、本当にそうなのです。

 閑話休題。意味が変わるということは、出来事が新しく生まれ変わるということなのです。それを示すワードが「新鮮」なのです。読者様は、日常から新鮮さを感じているでしょうか。もし感じていないと思うのであれば、おそらく、更新不足ではないかと思うのです。

 どんなことにも言えるのですが、更新は面倒なことなのです。新しいシステムや新しいサービスを受けるために更新するのです。それは良いのですが、なにより、前提が変わることが面倒であり、恐怖でもあるのです。だから、私たちはついつい、更新することを忌避して、新鮮さより慣れに重きを置くのです。その弊害が「形骸化した形式(伝統)」というやつなのですね。

 意味や前提が更新され続けている伝統というのは、形骸化せずに、新しいメッセージを発信しつづけているのです。江戸風鈴に、現在、どのような創意工夫がなされているかご存知でしょうか。「型破り」こそが、次のメッセージを受け取る手段なのです。

 「問題意識」というものがあるのです。幻想や願望を現実に反映させるための重要なモノなのです。「外に出す」ためには、目に見えるカタチにしないといけないのです。たとえば、心の中のモノが言語化されて、外に出るためには。普段から問題意識を持っていないとならないのです。

 私たちが「そこにあるモノ」に気付かない限り、それは見えないし、それは「無い」ことになるのです。相手に聞こえないなら、言ってないのと同じだということなのです。現実というのは、そこから、「それを受け取る人に影響があるもの」を言うのです。

 たとえば、名前も知らない無害の深海魚や、ブラジルで起こった盗難事件、空き地に生息するミミズ、そういった「影響のないもの」は現実ではないということなのです。言葉を変えれば、「無いのと同じ」なのです。

 意味というのは、この「無い」を「有る」に変えることを言うのです。それを成し得るのが「問題意識(気にかけること)」なのです。政治を意識しない人にとって、行政のなすことは「無い」のと同じ。だけど、タバコの税が騰がるよってなったときに、急に現実になるのです。

 画家や詩人や科学者は、私たちが普段視界から「消している」細かい部分を繊細に見続けているのです。

 重い喘息の人にとって、1°でも道が登り坂になっていれば苦しいのです。それは健常者が普段「無いことにしている」勾配なのです。

 クジラを保存したい人にとって捕鯨は反逆行為なのです。それは捕鯨文化のある国にとっては、何の罪の意識もないのです。

 遠い遠いお星様のことなんて7/7日にちょっと意識するぐらいだけど、天文学者にとっては超重要な現実なのですね。

 閑話休題。私たちの生きる原動力はなんでしょうか。「なんで生きてるんだろう」とか「生きる意味がわからない」「なんとなく念のために生きている」という人は、意外と少なくないんじゃないかと思うのです。

 CNNの記事に「Why the happiest has the highest suicide rate?(なぜ最も幸せな状態が、最も高い自殺率を生むのだろうか)」というのがありました。彼らが自殺してしまう理由は、それ以上幸せになれなくて、逆に不幸せで、生きる原動力を失ってしまったからだというのです。

 つまり、私たちの生きる原動力というのは、「いま幸せだから」とか「いま欲しいモノに囲まれてるから」といったことではなくて、自分が思い描く理想や願望や幻想にあるのです。「こうなりたい」と願うから生きつづけるのです。そういった願望やファンタジーのない人が自殺したり、あてもなくただ人生を粗末にするのです。

 恋をする人は、相手に幻想や願望を読み取るのです。恋する人は恋できる人であって、それに感動する人は感動できる人なのです。写真というのは思い出の記録ですが、写真自体に感動があるわけではないのです。だけど、感動できる人は、自分の感動したことをずっと憶えているものなのです。

 写真を撮るのが好きだという人の数多くは、感動することを知っている人だと思うのです。もちろん一眼レフなどで作品を造る創作は別として、思い出を記録しておきたいと思う人は、感動を大事にできる人なのです。感動を大事にするということは、意味を大切にするということで、うまくいけば、その意味を更新しようと思っているのです。

 「保存の本質」は後で取り出すところにあるのです。写真や日記というのは、冷蔵庫やジャム瓶と同じように、後でもう一度見直して、意味を考えなおすところに本質があるのです。書いたら書きっぱなし、撮ったら撮りっぱなしなんてことは、なかなかもって本質をわかっていないのです。

 すべての感動は自分のなかで生き続けるのです。旅先での風景や、古典、名作などなど、あらゆる感動が自分の糧になるのです。私は、高校生の時に彼女に誘われた聴きに行った合唱部の定期発表会で、感動したことをいまだに忘れていません。どこに誰が立っていてとか、曲目は何でとか、何時開演でとかは一切憶えていないのですが、そこで感動したことを憶えているし、思い出すたびに感動しています。

 若いころに古典や名作を読む意義は、大人になってもう一度読み返した時に、確かなインデックスになるからなのです。あの頃、この作品から感じた感動と、大人になってから感じた感動というのはおそらく大きく違うのです。じぶんが どれほど成長し、どんな風に成長していったのか、そしてこの先どう成長していくのか、あらゆる指標となること間違いないのです。

 哲学者や詩人の言葉は、彼らの繊細で微細な問題意識を外に出すために言語化された、ある意味で優れた言葉なのです。それを心で読むことは、限りなく感動的なことなのです。それを2chのネラーのように、ひとことで要約したり、3行でまとめて喜んでいるようでは儚むべきものになってしまうのです。

 私もこの記事を要約することができるし、もっとまとめることもできますが、そういった経済的で愚かなことをしないのが私の性分なのですね。言葉というのは、その人の幻想やファンタジーにそって外に放出するための貴重で繊細なものなのです。それは、言い換えたり、要約できるものではないのです。ひとつひとつの言葉や言い回しに、それぞれの「見えない」世界があるのです。

 閑話休題。意味は事後的に決着するといいましたが、たとえば「思春期」や「幼年期」というのは大人の視点から見た言葉であって、幼年のころに幼年を懐かしむことはできないし、思春期の頃に思春期の意味を考えることは気でないのです。

 幼年期の意味は、幼年期を過ぎ去ってから決着するのです。思春期の意味も同様なのです。私の両親は、私が小学生の時に不仲がたたって離婚しました。そこだけ見ると、私は不幸な子供だったでしょう。もちろん嫌なことはたくさんあったし、家にいるだけできまずい時もたくさんありました。

 ですが、幼年期のころにあった出来事の意味はまだ決定できないし、他人にはなおさら決めることのできない私だけの出来事の意味があるのです。だから私は、親の離婚がマイナスの意味だけを終わることを絶対に避けたいと思っているのです。あらゆることをしてきました。離婚を理解した中学生の時は、学校ではできるだけあへらあへらして、親の離婚が自分の周りに影響ないことを知り、高校生の時は、似たような境遇をもった人に同感することもできました。いまもまだ幼年期の意味を決定することはできていないのです。その時は、その時の自分を生きているだけなのです。

幼年は、思い出せる人にだけ懐かしい。幼年時代のことを憶えていて懐かしむことのできる人は、貴重な内的財産をもっている人なのだ。大人は今も子供の心を持ちこたえているが、もはや子供ではない。前を向いて歩きながら後ろも見ている。幼年とは自分が何かあるものに意識を向けて考え始めた時に、思いがけない形で生じてくるものであり、もともとぽつんとそこにあるものではない。それは目に見えないがその気になれば、いつもで別世界から飛び出してくることができる。ただし、それは自分の心に受け皿があり、理解し共鳴できる何かがあるときにはじめて関わりが生じるのである。思い出にふと気づくとき、人はトランプを操る手品師のように、ヒュッとちがうカードをてにしている。
(小原信「ファンタジーの発想」より)
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