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第34稿「言葉遣いを観察して、想いを少しでも受け取って」

2014.06.16.Mon
言葉遣いには想いがある。

「愛車」「愛犬」「愛煙」「愛妻」「愛嬢」「愛書」「愛刀」 ― これらの言葉遣いから受ける重要な印象というのは何だろうか。ほかの人からすれば「ただの」という語法で見捨てられる大切な印象について、私たちはどこまで理解し、どこまで受け取ることができているのだろうか。「愛好としての」あるいは「愛用としての」という意味を味わうためには、何に着目し、何に意識すればよいのだろうか。

「その時に病気のことを打ち明けると全く信じてもらえなかったり、どれだけ深刻に悩んで必死になっていても、軽く言われてしまうことがあって、それはそれで心が荒む感じがあったりもしました」 ― これは友達の言葉。これを読んでいると、"書かれていることが書かれている以上にとても繊細に書かれていて"、自分がどこまで受け取れているのか臆病になる。

事実の重さは人によって違う。私からしたら「ただのペット」でも、飼い主からしたら「愛猫」だったりする。そして、愛猫の中にも重さがある。愛猫=愛猫ではない。愛猫への愛情は飼い主ごとに異なるし、全てがユニークなはずである。なのに、私たちは、愛猫という言葉しか知らない。「愛猫2000%」とか言っても、「超愛猫」とか言っても、今度はネタにしか聞こえなくなってしまう。だから私たちは、それに続く言葉に延々と耳を傾け、嘘も真もフェアに聞き入れなければならない。先の子は「障害以上健常未満」という微妙なバランスの言葉で語った。これをどう受け取るか、私は全身全霊を用いて、その1%だけでもいいから理解したいと思う。

「これは私の愛車なのですが」という言葉の続きに対して、「愛をもって」耳を傾けなければ分からない。彼がどんな言葉遣いで「愛車を語る」のか、じっくりとゆっくりと確かめなければならない。「私は車なんて"ただの"移動手段だと思っているけれど、あなたがこの車を愛していて、その愛が唯一無二なのだと分かった」と言えるまで、怠らずに聞かねばならない。それはとても面倒だろう。その面倒も良いなって思えるような人と出会おう。そういう人と親しもう。言葉を、語りを、全身で感じきりたいと思えるような人と、言葉を交わそう。

言葉はいつも、体験を表しきれない。たとえば、「家族団らん」という言葉は、本当にあなたの家族経験を表し切れているだろうか。「仲間との思い出」は、本当にあなたの仲間経験を充分に指し示しているだろうか。「楽しい旅行」は、本当にあなたの土地経験を存分に言い切っているだろうか。家族団らんを100回やったとする。その100回のうち、同じだったものはひとつでもあるだろうか。同じ気持ちで、同じ感覚で、同じ印象だったものが、2回でも起こるだろうか。

反復というのは嘘である。反復の中で起こっていることは、どれも、初回で最終回になる。最初で最後、一回きり。その体験のことを、言葉は言い切れるだろうか。表現し切ってくれるだろうか。事務的で、機械的な言語に、そんなこと任せることができるだろうか。

「私は病気だ。それが伝わらない。それは虚しい」という事務文書に、人は何を読み込めばいいだろうか。だから、感性を大事にしている人は、その事務的反復を越えていくために、言葉の限界を少しでも延長するために、詩的な言葉を生み出す。「障害以上健常未満」という言葉に触れたとき、それが「言葉としては成立していない」ことぐらい誰にでも分かる。けれど、大事なのは語法ではない。事務的な意思疎通ではない。「障害」とか「健常」というテンプレートの中に収まり切らない自分という存在の儚い端切れを、どうにかこういにか手繰り寄せ、集めては和え、集めては添え、その永遠にも感じる途方も無い作業を何度も何度も繰り返し、テンプレートの間で揺らぎながら、千切られながら、無理解を去なしながら、どんな不幸も自分のモノとして回収していこうとする気概、どんな苦しみもいつか自分のモノとして肯定したいという希望、そんな頑張り屋な自分を鼻で笑おうとするもうひとりの自分と頑張ることを褒めてくれる自分のあいだで葛藤する熱性のエネルギー、そういったものを感じないだろうか。単に「うまいこと言ったな」では済まされないような、力強い意志を感じないだろうか。

よく、病気はアイデンティティになるという。これは科学的な言い草ではあるが、事務的でもある。病気というものを軽く見ている人間の放つ2チャンネル的な言葉。病気は自分という存在の儚さや健気さを突きつけてくる。それと向きあえば向きあうほど、自分という存在が愛おしくなってくる。時には消えたいとも思うが、それでも愛してやまない存在となる。それを教えてくれたのは、親でもなく、友達でもなく、ほかでもない病気だったとき、病気を愛さないで何を愛せばいいのだろうか。成功者が「この人が恩人です、人生を変えてくれました」と言うのと、何が違うだろうか。病気は、しばしば、自分の存在を教えてくれる恩人となる。「私が、自分の人生を、こんなに大切に、生きることができただなんて」という驚きを与えてくれる。病気にならねば二度と気付かなかったことかもしれない。

2チャンネル的な言葉遣いでは、そんなこと考えない。たとえば、

616 名前:いいちこ飲んでる名無しさん[sage] 投稿日:2014/06/13(金) 12:34:59.37 ID:6+eXXiTQ
>>615
なんであの監督クビになったの

617 名前:いいちこ飲んでる名無しさん[sage] 投稿日:2014/06/13(金) 12:35:22.12 ID:C35aXC6q
>>616
選手のこと殴ったから

618 名前:いいちこ飲んでる名無しさん[sage] 投稿日:2014/06/13(金) 12:36:10.33 ID:6+eXXiTQ
>>617
とんくす


こんな感じの会話があったとする。インターネットの特徴でもあるが、誰も情報を点検しない。書籍だったら「校閲」などの検査が入るけれど、電子はその速さを確保するために、あらゆる大事なことを省く。私の文章も、誰にも点検させていない。相手の言葉を確認しないし、点検もしないし、修正もしない。つまり、「対話がない」。コミュニケーションをしているはずなのに、大いにそのつもりなのに、誰も「言葉を交わし合っていない」のだ。放り投げたり、衝突させたり、時には据え置くこともある。

対話するというのは、アポをとって出向き、玄関にたどり着いては到着したことを知らせ、お辞儀を何度も交わし合いながら、家の中に入っていき、気まずくならない程度に要らない言葉のストック(「今日も暑いですね」)を回転させてお互いが場をつなぎ、靴を脱いだりスリッパを提供されたり、引き連れられながら廊下を直進し、既に用意されている居間に案内されることだ。インターネットの最大の長所は、そんな面倒なことしなくていいことであり、最大の弱点は、そんな丁寧なことができないことだ。

私たちは「決まりきった動詞に、自分なりの副詞を少しだけ加える」ことでしか丁寧になれないはずなのに、インターネットは名詞だけでショートカットしようとする。コンクリート打ち付けのような言葉遣いで、どうにかこうにか近づこうとする。危険に感じる、少なくとも無難ではない。

多くの自動車メーカーは、「低燃費」「ファミリーがラクラク乗れる」ということを強調する。それは車の機能性であって、作る側が「ただの車」だと思っているからこそ目指せるものだ。本当に車が好きな人たちは、「愛車」を売るはずである。日本ではトヨタだけが、"Fun To Drive, Again"(乗る楽しさをもう一度)というキャンペーンを張っている。ピンククラウンには、数多くの人が驚いたのではないだろうか。ショッピングモールなどの売り場を見ても、季節感とマッチさせたり、洋服のコーディネーションと一緒に展示して、「ライフスタイル」を強調しようとしているよう感じる。「ただの車」という言葉遣いから抜け出し、「生きることとしての愛車」を突き進んでいるのだろう。それは、生きるという「動詞」であり、どのように生きるかという「副詞」で構成されている。決して、「車」という名詞だけで語ろうとしない、機能だけで済まそうとしないトヨタの意気込みを感じる。

2チャンネル的で、ネット的な考え方・言葉遣いは、名詞を中心に据える。それは便利で大事なときもあるけれど、もし誰かと親しんだり、仲良くなりたいなら、その人の動詞や副詞にも注目してあげると良いかもしれない。そう考えると、履歴書は名詞ばかりでつまらない。行為の名詞だけで進んでいく恋愛(「告白→握手→ハグ→キス→ベッド→結婚」という名詞だけで考える恋愛)もつまらない。お互いが「恋愛する」という動詞を重要視し、それが「どのように」という副詞で修飾されることを歓迎するようになれば、もっともっと面白くなるかもしれない。

人生が豊かであることを認めるために、豊かな言葉遣いを身につけよう。そこには想いがたくさん詰まっている。

ありがとうございました。おわり。

しーゆーれーらー
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