スポンサーサイト

--.--.--.--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

第28稿「秋葉原の変化 ― イベントと戦争機能についての話」

2014.05.30.Fri
おはようございます、らららぎです。
せっかく秋葉原(職場)から記事を書いているので、秋葉原の考現学をしようかと思います。お暇な方がおりましたらお付き合いくださいませ。

さて、秋葉原の遷り変わりに関しては「終戦後の秋葉原の歴史」をご参照いただき、ここでは割愛させていただきます*1。終戦後の秋葉原では、「ラジオ」の存在が重大な役割を果たしました。いまでこそラジオ好きだなんて言うと、一般に古いタイプの人間だと思われてしまいますが、秋葉原で起こっている新しい変化は、実は「とてもラジオ的である」という話をさせていただきます。

映画とテレビという両メディアの違いは何でしょうか。メディアが違うということは、そこに交叉している意識が違うということである、とひとまず言えるでしょう。メディアは、メッセージである ― というのはメディア論の始祖とも言われるマクルーハンの言葉*2で、つまり、メディア(媒介)というのは、「人間同士に関すること、あるいは人間同士の行き来を間で調合するものである」わけです。メディアが違うということは、純粋に、調合方法が変わり、コミュニケーションや思考回路にも少なからぬ変化があるということ。

映画というメディアには、「参加する」感覚が多かれ少なかれ生まれるものです。テレビと違って、自分でラインナップを選び、自分で足を運び、不自由な場所に閉じ込められることを覚悟し、何をするか分からない不愉快な他人と隣接しながら、やや無理な体勢をとりつつ観ることでしょう。ここには、テレビジョン(遠くから送られてくる映像)にはない、その場に参加している感覚があります。それゆえ、テレビを見飽きてチャンネルを変えたり、小説の文字に飽きて途中で投げたりする人でも、映画は終わりまで観る傾向にあるようです。

ポッドキャストとラジオは何が違うでしょうか。テレビや映画は、「音+映像」という複合メディアでしたが、ポッドキャストもラジオも「音声のみ」のメディアとなります。ポッドキャストは、電子技術を活かしきって機能性とコンテンツ性を追及しているのに対し、ラジオの在り方は別様です。ラジオには「初耳性アウラ感覚=芸術的ニュース感覚」があります。これについて、もう少しだけ込み入った話をしましょう。

ポッドキャストは、どこか、複製芸術*3のようです。音声やメロディというのは、(楽譜的な)時間領域のうちにのみ存在しています。そのため基本的には「一度きり=アウラ的」なのですが、ポッドキャストや電子音楽というのは、何度も繰り返されることを前提としているのです。音声を機能としてとらえ、それを反復できるようにした「技術」。それはそれで素晴らしいことですし、私も英会話のポッドキャストとかダウンロードしたりします。ただ、もしポッドキャストが面白いとしたら、それはメディアの面白さではなくて「コンテンツの面白さ」です。英会話のポッドキャストだったら、その「話されている内容」が面白いかどうかに依存しているということです。

それに対して、ラジオというメディアは、コンテンツではありません。ラジオは複製可能ですが、複製前提ではないため、いつも「一度きり」という立場にあります。いわゆる「ライブ感覚」で、複製したいと思ったら自らテープを持ち寄り、自発的に録音するしかないのです。また「チャンネルを自分でうまく合わせる」という要素からは、映画のような「参加感覚」があるようにも思えます。つまり、ポッドキャストは「提供される」のに対して、ラジオは「居合わせてる」ということでしょう。

これをマクルーハンの「メディア=メッセージ」的に解釈して、さらに人間的な表現を試みるとすれば、ポッドキャストは「以下の内容でご提供させていただきます」という無機質な接待であり、ラジオは「あなたに伝えるので、どうかそこにいてくれ」という発信者の祈りである、と言えないでしょうか。メディアの違いは、メッセージの違いであり、意識の違いなのです。

閑話休題。さて、へなちょこメディア論はさておき、秋葉原の街は「電気器材→ファミリー家電→PC→アニメコンテンツ」という変遷をしてきました。この移り変わりは、礼拝的な価値によって成り立っています。なぜなら、秋葉原(外神田)は常に新しいものを取り込み、「観るために訪れる人」を驚かせる場所だったからです。「その場所にしか展示されていない価値あるものを一度でいいから拝みたい」という、宗教的な”感興=観光”なのです。観光が成り立つためには、拝みにくる人と、「どうか観に来てほしい=いままさに現生している展示的・礼拝的価値に居合わせてほしい」と思った企画者が必要。それが戦後はラジオ組み立てであり、家電であり、PCになり、アニメになり、いまは「イベント」だと思います*4

秋葉原はこれまでイベントスペースに喘いでおりました。大規模のイベントを行おうと思っても、それに向いている場所がなかったのです。そんななか、「パセラリゾーツAKIBAマルチエンターテインメント」が2012/11/22に登場し、このビルは7Fに劇場型のレストラン(300人収容)、8Fにお洒落なイベントスペース(100人収容)を持っています。同じ時期10/5に「Twin Box Akihabara」が登場し、ネット配信を完備していて200人を収容できる地下スペースが増えました。

2006年の秋葉原には石原都知事が「東京構想2000」のために敷いた「複合ビル・クロスフィールド」*5があり、それを構成している秋葉原UDXビルの4Fには730人収容可能のイベントスペース、秋葉原ダイビルには450人収容可能のコンベンションホール、残りは「ベルサール秋葉原」にある150~500人収容可能のホールが3つ、それだけでした。それがここ数年、先ほど紹介した巨大施設が少しずつ増えていて、イベンターたちの注目を受けているのです。

Daibuill1.jpg

下の写真の左がダイビル秋葉原、右がUDX秋葉原。上の写真はダイビルの一階で、駅を出てすぐにあります。

junk2.jpg

これはジャンク通り。秋葉原にある「全てを受け入れるための雑菌力」(潔癖主義へ否を唱える力)が、よく分かる通りです。また、キャッチのお姉さんたちは、店の邪魔にならないように壁際の店から少し距離をとり、なお道の邪魔にならないように道の中央から少し距離をとるところに位置せなばならず、まったく身動きができません。夜7時前後や休日になると、メイドさんや女子高生が並びます。

daibuill2.jpg

上がUDX秋葉原を歩道橋から撮影したもので、下がベルサール秋葉原の建物です。

pasera.jpg

これがパセラ。一階がハニートーストのお店になっていて、四階のP.A.R.M.S.というアイドル常設劇場で活躍している「ぱー研!」の人たちが、テーマ曲を作っています。



「はははにはにとんはにとんとん」。地下アイドルすごいなあって思う楽曲。アキドラで平日に無料ライブを行っているので、そこでチェックするのもありかもしれませんね。

akiba 032

ここが「Twin Box Akihabara」です。地下に収容される前の人たち。女性もおりますね。さてさて、ここからはイベントについて考えて参ります。

イベント*6というのは、イベンターや参加者たちが「思い思いに手を加えて築き上げていく」もの。だから<好むと好まざると>未知の何かに遭遇することになります。イベントに参加する者は、「私たちが辿りついた最終位置を必ず受け入れなければならない」(eventual)という気概に曝されるのです。つまり、イベントは「出来上がったものは、出来上がったものである」というあまりにも生硬で、あまりにも粗雑な結果*7を参加者としての責任で(みんなで)引き受けないといけないということ。

私は「いわゆる」の付く人見知りでしたが、イベント(祭り)で変わることができました。人見知りというのが、ある程度までは嘘だということに気付いたのです。私は「承認の手順」にこだわっていただけで、あまりに「綺麗好きだった」といえるでしょう。イベントや祭りと呼ばれるものは、ほとんど誰もが<自由な手順で>それらを築き上げていきます。そのなかで袖振り合う人との関わりも、とても自由で、「好意的にとても何もない」ものでした。間には何もないけれど、それぞれが「参加者としての責任」を感じているために、向き合うまで早く、向き合ってから深まるまでも早く、「お互いの素性が一気に連絡する」のです。私の公言していた「人見知り」というのは、単なる責任逃れと、単なる手順への固着でした。

「イベントではそれぞれが参加者であり、それぞれに良質の責任感があり、それぞれが主人公である」し、それはずっと負っていなくていい。1時間のイベントなら、責任を負うのは多くても1時間。それぐらいの時間なら、責任に対して本気を出してよいかもしれないと思えます。たとえば、「商店街の一員」として責任を負い続けるのはとても難しく、自信を持ちにくいことですが、「商店街のイベントで半日のあいだ協力しながら責任もって頑張る」なら出来なくないものです。協力と責任へのスモールステップにもなるのです。

地域のイベントは「儲けるためだ」と邪推する無関係者がいたり*8、確かにそういう人も中にはいるかもしれませんが、何が肝心なことかといえば「その地域を支える商店街や人々には少しだけ自信がなくて、でもイベント中の短期間であれば責任に向き合って本気を出すことができて、それが<イベントすれば=結果になれば>、明日からも地域を支えていく大きな自信になる」ということ。文化祭や学園祭に参加者として参加するということは、学校という大きな存在を支えるひとりとしての自分が「揺さぶられ」、”その結果として”生きていくことを受け入れることでもあるのです。いわゆる、結果による承認と自信。

さてさて、イベントはラジオ性を持っています。イベントはいつでも「初耳」*9で、ラジオ同様に「繰り返すことを前提にされていない」ものです。この緊張感は、すごく極論すると、戦争の持っていた機能と非常に似ているよう感じます。70年前の日本人は多かれ少なかれ「命のかかった緊張感」を持っていたことでしょう。それがいまでは(運よく)満足のいく安全を確保し、物資もそこはかとなく豊かになったものです。それはそれでいいのですが、受験戦争という「頭だけのかかった緊張感」を持つようになり、頭だけがおかしくなり、心を忘れてしまっています。

戦争を繰り返すのはあまり嬉しいことではありませんが、戦争の持っていた機能はなかなかすばらしかったと評価したいです。戦争を繰り返さないために、チャンバラを禁止し、おもちゃのピストルを取り上げ、ニコニコしていることを美徳(スローガン=空っぽな理想論)として、<平和な子に育てる>ことを徹底してきました。「我が子を平和に育てること」ばかりが行き過ぎて(頭ばかりが行き過ぎて)、子どもが友達と喧嘩することで得ることのできるメリット(というか大事な心)*10を欠落させてしまったのです。

イベントやラジオの緊張感というのは、受験のような頭だけではなく、「身」(身体性)のかかった大事な感覚だと思います。いわゆる老害と呼ばれる人は「自分たちのやった苦労を、いまの若者もするべきである」と考えていて、私は半分だけ賛同しているのです。それについて説明して、さすがに本稿を閉じようと思います。長くなってしまいましたからね。

戦争の苦労や恐怖は、命を脅かし、身体を震えさせることに成功しました。だけど、戦争はしたくないというのが総意だと感じます。そのために戦争の印象がついているものを全廃し、「平和な我が子というもの」を育てるに成功しました。ゆとり教育は、ほとんど漏れなく達成したといえるでしょう。しかし、達成したら達成したで、やはり大事なものを失っていて、その「身体からくる知恵や判断の欠如」は年寄りを苛立たせているようです。

ここでお互いの言い分を理解するために必要な見方を提案します。まず、私たちは、「科学的で合理的で、受験戦争的な頭脳」を手に入れた代わりに、「身体が震えることによって得ることのできる特有な知恵と判断力」を衰えさせてしまいました。逆に老いた側の人たちは、「頭こそあまり科学的で合理的ではないにしても、身体がいろいろな大事なことを知っている」といえます。私たちは科学的で合理的であるにしても身体の感覚がない馬鹿なので、「若者も同じ苦労をしろ=わしらと同じ苦労をしないとわしらの気がすまない」と字面どおりに受け取ってしまいます。

しかし、彼らの知っている<身体的な合理>は、おそらく、「若者には大事な何かが欠けていて、わしらにはそれがあるように予感している。しかしそれが何かを科学的に説明することはできない。だからとにかく同じ苦労をしてみなさい ― 苦労のなかで、緊張のなかで、(受験勉強的で単語帳的な知識ではなく)身体全体の感覚で判断してみなさい」ぐらいのことだと思うのです。で、合理的な若者からすれば「そう思ってるなら、そういえばいいじゃん」ということになるわけです。わたしって、ほんと、ばか。

「そう思ってるなら、そういえばいいじゃん」は本当に恥ずかしい。正論で科学的で機械的だけど、人間(の”身体”)はそこまでよくできていないもの。ハイゼンバグ*11。私たちが「もしかしたら大事なことかもしれないから、今は分からないけれど、とりあえず従ってみよう」という予感や余白を持てなくなってしまったことにも問題がありそうです。優れた経済感覚のうちに消費者的で顧客的になってしまった私たちは、「この商品のメリットやデメリットについて私は全て知っている」という感覚を強めてしまったのかもしれません。「私はこのおっさんの言っていることの内容を把握し切っており、不合理さや無根拠さを知っているため受け付けないという正しい判断をした」と思いたい気持ちが、どんどんどんどん強くなっていってしまって、いつの間にか「自分よりも身を削って生きている人間に対して、科学的でない部分や合理的ではない部分を見つけ出し、意図的に貸す耳を持たなくなった」といえます。

経験からいって、「なぜそれが言われているのか」の答えは、ほとんどの場合、あまり合理的には思えないものです。先のことに関しては、「自分たちだけ苦労しているのは不公平だから」という合理的な理由があてはまるときもあるかもしれませんが、もしかしたら、その奥行きを探検してみると、「それが若者にとって必要不可欠なことだと身体が確信しているから」という不合理に合理的な答えがあるかもしれません。そこまで深くもぐってみるのは、<費用対効果=コスパ>的に考えて、若者が自分のために避けているだけなのかもしれません。また、効率のよさを求めると、次も効率のよさを求めるしかできません。効率のよさを選ぶことが長期的にみて危ないことだと気付く「隙」すらないのです。

閑話休題。受験戦争は、戦争の「頭のぶぶん」だけを代替してくれました。いかに要領よく、いかに無駄なく、いかに効率的に、出るものだけを絞って学習していくかどうか、そしてそれに長けている人ほど「優秀な人」であり、それに長けていないと「不必要な人材」として分けられてしまいました。学歴コンプレックスも、ある面では仕方のないことかもしれません。私みたいに奥行きや無駄を慈しむ人は、そもそも受験戦争に向いていないのかもしれません。受験生は、評論の主張を効率的に読む訓練はできても、詩の無駄さ=豊かさを味わう訓練はしないものです。

それは仕方ないとして、今度は、戦争の「心身のぶぶん」を代替しなくてはいけません。身震いし、緊張し、命がかかっているという責任感や当事者意識。インターネットでは、ちょっと訓練しにくい「その人が居るし、居てよい」という感覚について代替してくれるのは、イベントだということを言いたくて、こんな長い記事を書いておりました。

秋葉原は、ラジオから始まり、紆余曲折あって、イベントにたどりついたのです。「多種多様な人たちをまとめて全肯定する場所」として、ずっとそこにあったのです。秋葉原からは否定や迫害の雰囲気を感じません。「新しいものを受け入れ続けてきた秋葉原」だからこそ、全てを丸ごと認める術を知っているのかもしれませんね。これからどんどん「何が起こるかわからない町」として発展していくことでしょう。そんな願いを込めて、この記事を終わりにしたいと思います。ありがとうございました。おわる。

しーゆーれーらー



*1:「長文の歴史記事を読むのは退屈で面倒という人のために、カタログ的な要約を置いておきます。理系学生の【ラジオ組み立て販売】が流行し、終戦を待っていた電気系の業者たちが外神田に集まりました。【露天】をたくさん敷くけれど、インフラ設備をしようとしているGHQから【撤去令】が出ます。その代わりの場所となったのが【秋葉原のガード下】で、そこに高密度の商品区が出来上がっていきました。もともと【神田・上野は国鉄の乗降者が多く】、品物も安いという情報を聞きつけた人がさらに集まってきて、理想的な市場になっていきます。「所得倍増計画」が進むなかで、いわゆる「三種の神器」などの【家電ブーム】が到来し、【ファミリー層】も取り込んでいきます。家電ブームと交替するかのように、次の魅力となる【PCブーム】が到来。その後はエヴァンゲリオンなどを皮切りに【アニメブーム】も起って、現在はその真っ只中ということです。(本稿では、これを踏まえたうえで、秋葉原の今から未来を眺めようと思います)。

*2:「電気の光を例にとれば、この点が明らかになるだろう。電光は、純粋なインフォメーションである。電光が何か語句か名前を描き出すのに使われないかぎり、この電光はいわば、メッセージをもなたい媒体である。この事実はすべてのメディアの特性、つまり、すべてのメディアの「内容(content)」は常にもう一つのメディアである、ということを意味している。書く場合の内容はスピーチであり、印刷物の内容は書かれたことばであり、印刷されたものが電信の内容となる。「スピーチの内容はなにか」 ― 「それは思考の実際の過程であり、それ自体は非言語的なものである」ということになる。抽象絵画は創造的な思考過程を直接表現したものである。…ここで問題にしようとしているのは、既存の過程の振幅を増したり、速度を速めたりするそのやり方、あるいはその表われ方が、心理的、社会的にどんな影響を与えるかである。なぜなら、どのようなメディアの技術でも、その「メッセージ」が人間に関係するようになると、それによって尺度が変わり、あるいは進度が変わり、あるいは基準が変わってくる。鉄道は、走ること、輸送すること、あるいは車輪、路線を人間社会に持ち込んできたのではなく、まったく新しい種類の都市や仕事やレジャーを生み出して、従来の人間の昨日を促進し、また拡大したのである。」
(マーシャル・マクルーハン「人間拡張の原理」p.15より)

下の画像は「母親タイプ別 情報の捉え方とメディア・エンゲージメントのポイント」からの引用です。

img_7934f7342957504745fc185ebe1f174b83723.gif

それぞれの母親が触れる「メディア」と、その結果というかテイストが違うことに気付かれることでしょう。情報を受け取るメディアの選択が意識を変え、行動を変え、ひいては人生を変えるのです。とくにお金の場面となると顕著、つまり、「クーポンから飲食店を選ぶ」「チラシから食材を選ぶ」という人は、安さというレベルに行動を縛られており、摂取するものの質を相当悪くしているかもしれないのです。

*3:複製芸術というのは、ここでは、複製を前提にされた芸術のことです。たとえば浮世絵というのは、繰り返されることが前提にあります。ボーカロイドの楽曲(電子音楽)も同様です。

*4:サンリオの社長・辻さんが「これからの時代は、ギャンブルとセックスとショーだ」と言っていました。これを援用して考えていくと、「たまたま観れた価値ある展示」には、ギャンブルとショーの要素があります。もしそうなら、「たまたま居合わせた価値あるライブイベント」には、ギャンブル(運よく価値があった)も、セックス(参加者が一体になって全身で何かを感じた)も、ショー(未知で新しいものが目の前で私のために披露された)も、充分に満たしているように思えませんか。

*5:秋葉原は、2005年、土地区画整理により再開発されました。(計画自体は2003年からで、もともとは青果市場)。石原都知事が「秋葉原をIT産業の世界的拠点とする」として、秋葉原ダイビルと秋葉原UDXが建てられました。1994年から着工していたつくばエクスプレス(TX)も同時期に完工し、「最高峰の学術研究都市つくば」と、「IT産業の中心地アキバ」をつなぐパイプラインとなり、あらゆることが期待されていました、が、クロスフィールドは秋葉原に馴染めず(というか旧市街から圧力を受けて)、一時的に閉館するところまで追い込まれてしまったのです。いまでは、UDXオープンカレッジといって、「トマトの6次産業化研究」とか「藻で未来のエネルギーをつくる」とか、アカデミックな部分を強化しながら(13Fには東大院理工学研究室があったり)、4Fの東京アニメセンターでは「究極のおしりペンペン展」などを行っておりますね。

*6:「An event is something that happens, especially when it is unusual or important. An event is a planned and organized occasion, for example a social gathering or a sports match. イベントというのは、とりわけ普段聞くことのない大事なことがあるときに生じる何かのことです。また、交流会やスポーツ大会などのように予め企てられており、整備がきっちりと施されている行事についても言います。」
(Collins Cobuild English Dictionary for Advanced Learnersより、らららぎ拙訳)

*7:イベント(even)の語源は、「e-vent」(外に-出てくる)です。そこから「eventually」(結果的に/最終的に)という意味が生まれます。イベントの肝心は「結果」(outcome)にある、ひとまずそう言えそうですね。「発生した結果」はあまりにも自然で、受け取るには綺麗ごとを諦めなければなりません。RPGゲームでイベントを作るときに気をつけるべきことは、しっかりと「結果的に描くこと」です。これについては別の記事で書くことにしましょう。

*8:私も昔は「成人式というのは、地域にお金を落とさせるつまらない強制行事だ」なんてこと言っていました。若かったと反省しております。イベンターとしてのお仕事を少しだけするようになってから、あれは、地域に自信がないからなんだなということに気付いたのです。学校も、お店も、地域住民も、その「地域」という不確かな共同体に対して自信がなく、承認において不安で、自分が「その地域にいて、その地域を心で名乗りながらすごしていいのか」という資格が問われていることにびくびくしていたのです。それを全てチャラにしてくれる装置なんだな、と、ようやくわかるようになりました。成人式は、すばらしい。参加しなかった私は、とても浅はかでした。

*9:初耳というのはニュースということです。いわゆる「新聞」(新しく聞いたこと)ですが、「知りたいこと」ではなくて「知るべきこと」として情報していることを言いました。いまではニュースはネタとして消費されておりますが、ラジオやイベントの「ニュース性=初耳性」というのは、もしかしたらニュースが衰退した今に替わる、ひとつの「知るべきこと」の指標なのかもしれませんね。

*10:つまり、「手加減すること」という感覚を失ったのです。兄弟がいる人は、まだ、兄弟げんかが許されていますから、手加減することを知っていると思いますが、誰とも喧嘩しない人は「手加減というものを手が知らない」のです。頭だけが行き過ぎた、頭だけの存在者となってしまうでしょう。そういう人はテレビでお笑い芸人が「最高の手加減でもって、上手にどついている」のを見ただけで嫌悪感を抱くもの。チャンバラは悪徳であるという、ツライ教育を受けてきたのでしょう。立花隆が「東大には優しい子が多すぎる」と言っていましたが、飼いならされているといっても良いかもしれません。別に私だって主体性という概念が好きなわけではありませんが、「自分が自分として身をもって参加する」ということに不慣れすぎるのです。もちろん東大に数も割合も多いかもしれませんが、そこだけに限りません。

*11:ハイゼンバグというのは、調べようとすると消えてしまう厄介なバグのことを言います。人間はなかなかバグの多い存在でして、すべてを「潔癖のまま」「完璧のまま」「十全なまま」「理想のまま」行うことはできません。そのため、修正する力を持っています。失敗しても「てへぺろ☆」といって帳消しに追いやったり、埋め合わせしたり、懺悔したり、時には自害することもあります。ヒューマンエラーは、どうにかなるようになってるものです。そのなかでも特異なバグ。修正しようと調査すると変貌して見つからなくなるバグ。人間を理解するためには、秋葉原的に「そういうこともあるんだな」と受け入れる姿勢も必要となるでしょう。難しいけど。
スポンサーサイト
 | HOME | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。