スポンサーサイト

--.--.--.--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

幻想にいきる

2011.07.06.Wed
小さなころは神様がいて、不思議に夢を叶えてくれた。やさしい気持ちで、目覚めた朝は、大人になっても奇蹟は起こるよ。カーテンを開いて、静かな木漏れ日のやさしさに包まれたなら、きっと、目に写る全てのことは、メッセージ
(松任谷由実「やさしさに包まれたなら」より)

自分が発しているのと同じようなものが自分の周りに集まってくる。時々、「こんなものは私が望んだものじゃない!」と思うけど、やっぱり自分の中に似た部分があることを認めざるを得ない。他の人のどんな意見も行動も、自分はどう生きていきたいのかを考える材料になる。花には蝶が集う
(Twitter Account @chiyorin_com 6/7のツイートより)

頭の中に古い考えが頑張っていると、新しい情報が入ってくるのを拒否するから、せっかくの新しいメッセージも届かない
(工学者 糸川英夫)


 私たちの心の中、内側には、無限大に拡がる世界があるのです。私たちが、日常みているモノやコトというのは、私たちの内側にあるモノの一部なのです。

 一般的に現実と呼ばれるものは「外に出たモノ」であって、たとえばデータとかジェスチャとかルックスとか言葉とか表情なんかがそうなのです、が、思考とか着想とか思惑とか感情といったモノは、ほとんどが外に顕れることなく内側で消費されていくのです。

 外と内はリンクしているのです。ユング心理学ではないですが、心の奥で無意識が密かに抱く理想を、現実の価値観にしているのです。心の奥で「こうなれば幸せ」と願ったとして、現実でそうならなかった場合、不幸を感じてしまうのです。

 現実をさす「外にあるモノ」は、はっきりいって、意味を持っていないのです。小説「ナイン」から考えること意味を付与することで書いた通り、意味というのは事後的に自分のジャッジで決着するのです。そのジャッジの基準というものが、内側にある無意識の願い(desire)や幻想(daydream)なのです。

 余談になりますが、ブログを6年やっていて「考えるって何?」という質問を何度もいただいたことがあります。私が持ち合わせている答えは「考えるというのは、生きることであり、生きるということは、人生の出来事の意味を常に更新していくこと」ということなのです。

 ジャッジが変われば、意味は当然変わるのです。その判断基準である自分の中の幻想や願望が一皮向けたりすれば、意味というのは変わってくるのです。昨日「トリハダ」という番組で「ベトナム戦争の時、ベトナムの少女は、アメリカ兵に父を殺され、その人をずっと恨んでいたが、33年の時を経て、たった1枚しかなかった父との写真をそのアメリカ人から受け取るために対面することになり、会うやいなや歓喜に溺れた(要約下手でごめんね><)」という内容の番組がやっていました。

 読者様も「あの時は恨んでいたけど、今は…」という経験があるんじゃないかと思うのです。考えることで、生きることで、時が経つことで、意味が更新されて、新しいメッセージを受け取ることができたということなのです。余談を続けます。

 「時が解決してくれる」という言葉があるのです。小さいころは、どうしてそんなことがあるのかわかりませんでした。でも、いまはわかるのです。時は、私たちが想像しているより遥かに、大きな力を持っているのです。世界には、様々な「力」が溢れているのです。私や、あるいは読者様が「自分は無力で何もできない」と歎いたことがあったとしても、重力・引力・張力・摩擦力・浮力…etc、世界に溢れている「力」を利用することで、私たちは困難や艱難を乗り超えることができるのです。

 時が解決というのは、時間の経過とともに様々な力が作用して、なかば強引に意味を変えてくれることをいうのです。「どうにかなるさ」という言葉も、単なる気休めなんかではなく、本当にそうなのです。

 閑話休題。意味が変わるということは、出来事が新しく生まれ変わるということなのです。それを示すワードが「新鮮」なのです。読者様は、日常から新鮮さを感じているでしょうか。もし感じていないと思うのであれば、おそらく、更新不足ではないかと思うのです。

 どんなことにも言えるのですが、更新は面倒なことなのです。新しいシステムや新しいサービスを受けるために更新するのです。それは良いのですが、なにより、前提が変わることが面倒であり、恐怖でもあるのです。だから、私たちはついつい、更新することを忌避して、新鮮さより慣れに重きを置くのです。その弊害が「形骸化した形式(伝統)」というやつなのですね。

 意味や前提が更新され続けている伝統というのは、形骸化せずに、新しいメッセージを発信しつづけているのです。江戸風鈴に、現在、どのような創意工夫がなされているかご存知でしょうか。「型破り」こそが、次のメッセージを受け取る手段なのです。

 「問題意識」というものがあるのです。幻想や願望を現実に反映させるための重要なモノなのです。「外に出す」ためには、目に見えるカタチにしないといけないのです。たとえば、心の中のモノが言語化されて、外に出るためには。普段から問題意識を持っていないとならないのです。

 私たちが「そこにあるモノ」に気付かない限り、それは見えないし、それは「無い」ことになるのです。相手に聞こえないなら、言ってないのと同じだということなのです。現実というのは、そこから、「それを受け取る人に影響があるもの」を言うのです。

 たとえば、名前も知らない無害の深海魚や、ブラジルで起こった盗難事件、空き地に生息するミミズ、そういった「影響のないもの」は現実ではないということなのです。言葉を変えれば、「無いのと同じ」なのです。

 意味というのは、この「無い」を「有る」に変えることを言うのです。それを成し得るのが「問題意識(気にかけること)」なのです。政治を意識しない人にとって、行政のなすことは「無い」のと同じ。だけど、タバコの税が騰がるよってなったときに、急に現実になるのです。

 画家や詩人や科学者は、私たちが普段視界から「消している」細かい部分を繊細に見続けているのです。

 重い喘息の人にとって、1°でも道が登り坂になっていれば苦しいのです。それは健常者が普段「無いことにしている」勾配なのです。

 クジラを保存したい人にとって捕鯨は反逆行為なのです。それは捕鯨文化のある国にとっては、何の罪の意識もないのです。

 遠い遠いお星様のことなんて7/7日にちょっと意識するぐらいだけど、天文学者にとっては超重要な現実なのですね。

 閑話休題。私たちの生きる原動力はなんでしょうか。「なんで生きてるんだろう」とか「生きる意味がわからない」「なんとなく念のために生きている」という人は、意外と少なくないんじゃないかと思うのです。

 CNNの記事に「Why the happiest has the highest suicide rate?(なぜ最も幸せな状態が、最も高い自殺率を生むのだろうか)」というのがありました。彼らが自殺してしまう理由は、それ以上幸せになれなくて、逆に不幸せで、生きる原動力を失ってしまったからだというのです。

 つまり、私たちの生きる原動力というのは、「いま幸せだから」とか「いま欲しいモノに囲まれてるから」といったことではなくて、自分が思い描く理想や願望や幻想にあるのです。「こうなりたい」と願うから生きつづけるのです。そういった願望やファンタジーのない人が自殺したり、あてもなくただ人生を粗末にするのです。

 恋をする人は、相手に幻想や願望を読み取るのです。恋する人は恋できる人であって、それに感動する人は感動できる人なのです。写真というのは思い出の記録ですが、写真自体に感動があるわけではないのです。だけど、感動できる人は、自分の感動したことをずっと憶えているものなのです。

 写真を撮るのが好きだという人の数多くは、感動することを知っている人だと思うのです。もちろん一眼レフなどで作品を造る創作は別として、思い出を記録しておきたいと思う人は、感動を大事にできる人なのです。感動を大事にするということは、意味を大切にするということで、うまくいけば、その意味を更新しようと思っているのです。

 「保存の本質」は後で取り出すところにあるのです。写真や日記というのは、冷蔵庫やジャム瓶と同じように、後でもう一度見直して、意味を考えなおすところに本質があるのです。書いたら書きっぱなし、撮ったら撮りっぱなしなんてことは、なかなかもって本質をわかっていないのです。

 すべての感動は自分のなかで生き続けるのです。旅先での風景や、古典、名作などなど、あらゆる感動が自分の糧になるのです。私は、高校生の時に彼女に誘われた聴きに行った合唱部の定期発表会で、感動したことをいまだに忘れていません。どこに誰が立っていてとか、曲目は何でとか、何時開演でとかは一切憶えていないのですが、そこで感動したことを憶えているし、思い出すたびに感動しています。

 若いころに古典や名作を読む意義は、大人になってもう一度読み返した時に、確かなインデックスになるからなのです。あの頃、この作品から感じた感動と、大人になってから感じた感動というのはおそらく大きく違うのです。じぶんが どれほど成長し、どんな風に成長していったのか、そしてこの先どう成長していくのか、あらゆる指標となること間違いないのです。

 哲学者や詩人の言葉は、彼らの繊細で微細な問題意識を外に出すために言語化された、ある意味で優れた言葉なのです。それを心で読むことは、限りなく感動的なことなのです。それを2chのネラーのように、ひとことで要約したり、3行でまとめて喜んでいるようでは儚むべきものになってしまうのです。

 私もこの記事を要約することができるし、もっとまとめることもできますが、そういった経済的で愚かなことをしないのが私の性分なのですね。言葉というのは、その人の幻想やファンタジーにそって外に放出するための貴重で繊細なものなのです。それは、言い換えたり、要約できるものではないのです。ひとつひとつの言葉や言い回しに、それぞれの「見えない」世界があるのです。

 閑話休題。意味は事後的に決着するといいましたが、たとえば「思春期」や「幼年期」というのは大人の視点から見た言葉であって、幼年のころに幼年を懐かしむことはできないし、思春期の頃に思春期の意味を考えることは気でないのです。

 幼年期の意味は、幼年期を過ぎ去ってから決着するのです。思春期の意味も同様なのです。私の両親は、私が小学生の時に不仲がたたって離婚しました。そこだけ見ると、私は不幸な子供だったでしょう。もちろん嫌なことはたくさんあったし、家にいるだけできまずい時もたくさんありました。

 ですが、幼年期のころにあった出来事の意味はまだ決定できないし、他人にはなおさら決めることのできない私だけの出来事の意味があるのです。だから私は、親の離婚がマイナスの意味だけを終わることを絶対に避けたいと思っているのです。あらゆることをしてきました。離婚を理解した中学生の時は、学校ではできるだけあへらあへらして、親の離婚が自分の周りに影響ないことを知り、高校生の時は、似たような境遇をもった人に同感することもできました。いまもまだ幼年期の意味を決定することはできていないのです。その時は、その時の自分を生きているだけなのです。

幼年は、思い出せる人にだけ懐かしい。幼年時代のことを憶えていて懐かしむことのできる人は、貴重な内的財産をもっている人なのだ。大人は今も子供の心を持ちこたえているが、もはや子供ではない。前を向いて歩きながら後ろも見ている。幼年とは自分が何かあるものに意識を向けて考え始めた時に、思いがけない形で生じてくるものであり、もともとぽつんとそこにあるものではない。それは目に見えないがその気になれば、いつもで別世界から飛び出してくることができる。ただし、それは自分の心に受け皿があり、理解し共鳴できる何かがあるときにはじめて関わりが生じるのである。思い出にふと気づくとき、人はトランプを操る手品師のように、ヒュッとちがうカードをてにしている。
(小原信「ファンタジーの発想」より)
スポンサーサイト
関連記事
 | HOME | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。